山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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(続15)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。高橋源一郎の朝日新聞論壇時評『 ぼくらの民主主義なんだぜ』を読みながら「 おれは泣いた」。あまりにもレベルが低過ぎ。これぞ、『 公衆便所の落書き』ではないのか? ( 続く)

(続15)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。高橋源一郎朝日新聞論壇時評『 ぼくらの民主主義なんだぜ』を読みながら「 おれは泣いた」。あまりにもレベルが低過ぎ。これぞ、『 公衆便所の落書き』ではないのか? ところが不思議なことに、高橋源一郎のユルイ駄文「 おれは泣いた 」という「 小川榮太郎批判」を絶賛する人がいる。仲間同士の馴れ合い 、あるいは知的マスタベーションだろう。朝日新聞の論壇時評だと言うから、Amazonから本が届くやいなや、私は「正座 」(笑)しつつ読ませてもらったが、意外や意外、まったくのクズ本であった。こういうクダラナイ本を持て囃す勢力が一部にはあるようだが、私は、ハッキリと、クズ本だと断言する。この高橋源一郎の論壇時評を隅から隅まで、熟読したという自信はないが、その空虚な内容に失望した。左派論壇にしか目が行っていない。つまり、今、話題の保守論壇や保守ジャーナリズム 、保守論客 等の文章への言及がほとんどない。私は、今は、左派論壇より保守論壇に関心を持っている。良かれ悪しかれ、保守論壇の方が、生きがいいからだ。その内容はともかくとして、今、現在の日本の論壇やジャーナリズムを主導しているのは保守論壇や保守ジャーナリズムだからだ。高橋源一郎朝日新聞論壇時評は 、それを「 俺達には関係ない」とでも言うように無視、黙殺して、仲間たちだけで、自閉的マスタベーションに耽っているように見える。高橋源一郎の「小川榮太郎批判 」が、つまらないのは、彼が、これまで、無視、黙殺してきた保守論壇や保守ジャーナリズムの言論が、意外に「まとも」だったからではないのか。高橋源一郎は、「 小川榮太郎批判 」で、小川榮太郎を、正面からも、搦手からも批判していない。嫌味を並べただけで、議論と論争から逃げている。何故、保守論壇や保守ジャーナリズム、あるいは杉田水脈小川榮太郎等の言論に重大な欠陥や瑕疵があり、このまま黙殺して、放置するわけにはおけないと思うなら、絶好の機会ではないか。何故、正々堂々と論争を挑まないのか。高橋源一郎がやったことは、新潮社前の抗議の左派デモ隊に怯え、あっさり白旗を掲げ、屈服した「新潮45」編集長や「新潮社」社長の出版ジャーナリズムの責任を問うことなく、むしろ抗議の左派デモ隊やそれに屈服した「新潮45」を、遠くから弁護することだった。そのようなへっぴり腰で、今の保守論壇や保守ジャーナリズムを批判出来るわけがない。せいぜい「 お前のカーチャン 、デベソ」(笑)的な駄文で、お茶を濁し、逃げるしかない。さて、田畑書店社主の「大槻慎二」が、高橋源一郎の駄文を、朝日新聞誌上で、絶賛しているらしい。私は、それを転送してくれる人がいたので 、読んだ。読んで、情けなくなった。これで 、日本の出版ジャーナリズムは、終わったな、と思わざるを得なかった。以下は、大槻慎二の文。 ーーーーー以下引用ーーーーー

 「新潮」11月号で、高橋源一郎さんの「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」を読んだ。本人のツイッターで予告を見て、心待ちにしていたものだ。

 読了し、唸った。期待以上、どころか、期待の次元をはるかに超えた、とてつもない文章なのだ。たった5ページ、6000字ほどですべてを言い尽くしている。

 そして驚くべきことは、この「たった5ページ」を書くために、高橋さんは、「アマゾンで手に入れることができる小川さんの著作をすべて購入」し(もちろん自費で)、4日間ですべてを読んだというのだ。たいへんな労力である。「たった5ページ」のためになぜそんなことをするのか?

 「それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである」

 この1行ですでにだいぶ参ってしまっていたが、全文を読んでさらに感銘を受け、思わず呟いた。「これが作家だよな」。( 以下略) ーーーーー引用終了ーーーーー

笑った。全著作を読んだとか買ったとか、それがなんなのか。全部、クダラナイ。高橋源一郎は、その文章で、多額の原稿料をもらうのだろう。全著作を読んだとか、買ったとかなんて、当然ではないか。それが絶賛すべきことなのか。編集者たちの知的堕落は際限がないようだ。田畑書店は、私が学生の頃からあった。廣松渉の『 エンゲルス論』を出したのは盛田書店だったはずだが、私の頭の中では、田畑書店も同じような硬派出版社だった。今は、小市民的な、薄っぺらな、通俗的な出版社に変貌しているのだろうか。ところで、「『新潮45』廃刊事件」をめぐって、保守論壇側から、多数の反論が寄せられているようだ。藤岡信勝櫻井よしこ小川榮太郎等の反論に、高橋源一郎やその応援団は、どう反撃するのだろうか。それとも、「 反論の価値無し」とか言って、へっぴり腰で逃げ出すつもりだろうか。私は、これまで、『 保守論壇亡国論』や『ネット右翼亡国論』等で、保守論壇や保守ジャーナリズムを、厳しく批判してきたつもりだが、左派論壇や左派ジャーナリズムを擁護したわけではない。私は、昔からイデオロギー的には、保守論壇側の人間である。私は、こういう言葉は使いたくないが、いわゆる「 保守」として、「エセ保守論壇」を批判したに過ぎない。そう言えば、「新潮45」には、私の「論敵=曽野綾子」(笑)も連載していたはずだ。私は、自慢じゃないけど、『曽野綾子大批判』という佐高信さんとの対談本も出している。誤解している人もいるようだから、言っておくが、私は、杉田水脈小川榮太郎、あるいは保守論壇を擁護しようとして、この文章を書いているわけではない。私は、バッシングやデモ隊ばかりが横行し、命懸けの過激な議論や論争がなくなった論壇や文壇、あるいはジャーナリズムやアカデミズムを批判しているのである。

(続14)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。そして、誰もいなくなった「『新潮45』廃刊事件」論争。 「新潮45」に掲載された小川榮太郎の「 LGBT騒動 論文」を「 公衆便所の落書き」とTwitterで罵倒し、次に『新潮 』11月号に名指しで、嫌味タップリの「 小川榮太郎批判 」を書いた自称=作家の高橋源一郎が、いよいよ本格的な論争を仕掛けるかと思って待っていたら、どーも、逃げ出そうとしている。( 続く)

(続14)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。そして、誰もいなくなった「『新潮45』廃刊事件」論争。 「新潮45」に掲載された小川榮太郎の「 LGBT騒動 論文」を「 公衆便所の落書き」とTwitterで罵倒し、次に『新潮 』11月号に名指しで、嫌味タップリの「 小川榮太郎批判 」を書いた自称=作家の高橋源一郎が、いよいよ本格的な論争を仕掛けるかと思って待っていたら、どーも、逃げ出そうとしているようだ。小林よしのりに至っては、「 LGBT問題 」は難しくて、今、勉強中らしい。それなら、最初から、知ったかぶりをせず、黙っていろよ、と言いたいところだが。さて、高橋源一郎は、Twitterでの「公衆便所の落書き 」発言からしばらくTwitterの書き込みを中断していたが、久し振りに投稿して、「 こんなことになっているとは知らなかった 」とボケ発言をやっている。どーやら、小川榮太郎サイドから沸き起こっている「高橋源一郎批判」に反撃する気配は微塵も見られない。どーしてだろう。逃げるつもりか。それとも黙殺して、嵐の過ぎ去るのを、首を長くして、じっと待つつもりなのか。聞こえて来るのは、暗闇からの「負け犬の遠吠え 」ばかり。だから 、近頃の「 文学」も「文壇」も「文芸誌」も 、そして、「 作家」も「 文芸評論家」も駄目なのだ。毒にも薬にもならないクズ作家やクズ評論家どもが 、「 金魚の糞」のように文芸誌の片隅をウロチョロと残飯あさり。吉本隆明江藤淳三島由紀夫大江健三郎らの「 命懸けの論争」の時代が懐かしい。私は、吉本隆明江藤淳らの過激な論争や罵倒合戦が大好きだった。佐高信さんと『曽野綾子大批判』(「月刊日本」 )という対談本を出した時、佐高信さんに、論争においては「 上品さは敵だ」「 もっと下品に」という魯迅の論争術(佐高信魯迅烈読』)を教えられて、納得したことを覚えている。ところで、論争のためのウオーミングアップを兼ねて、高橋源一郎の『 ぼくらの民主主義なんだぜ』( 朝日新書 )と『 丘の上のバカ( ぼくらの民主主義なんだぜ2 )』を、Amazonで「 一円 」で買い求め、読んだ。朝日新聞の論壇時評を集めたものらしい。何度も読み返した。「 おれは泣いた」ね。あまりにもクダラナイ駄本。これぞ「 公衆便所の落書き 」。私は新聞を読まない。だから、朝日新聞の論壇時評も読んでいない。朝日新聞の論壇時評ってこんなにレベル低かったのか、と知って、愕然とした。高橋源一郎が、「論争 」から逃げ出すのも当然か。

一昨夜は、政治学者の岩田温先生が上京、翌日つまり14( 日曜日 )、新著『 流れない読書』刊行記念講演会が予定されていたにもかかわらず、新宿の『 玄海』で呑み会だった。( 続く)

一昨夜は、政治学者の岩田温先生が上京、翌日つまり14( 日曜日 )、新著『 流れない読書』刊行記念講演会が予定されていたにもかかわらず、新宿の『 玄海』で呑み会だった。岩田氏の結婚式以来、久し振りの呑み会で話がはずむ。今、話題の「 LGBT騒動 」や「『新潮45』廃刊事件」から、ドストエフスキーの『 悪霊』論、安倍政権論などーー、多岐に渡る。来年の9月には 、再び、川原彰夫さんの『 鹿児島西南塾』 、山崎行太郎の『 東京西南塾』、岩田さんの『 歴史探究会』、稲村公望さんの『 東京義塾』の共同主催で、『 岩田温講演会in鹿児島』を企画中だ。郷土自慢や英雄崇拝伝説ではなく、学問的、思想的な「 西南戦争とは何だったのか」をテーマにやる予定。私も、それまでに『小説南洲伝』 を仕上げたいと思う。岩田氏は、政治学が専攻の政治哲学者だが、高校時代からドストエフスキーニーチェも読んでいたという。今、35歳だ。読書量も酒量も、際限がない。私は、今は、外ではあまり飲まないようにしているが、岩田氏の酒は、終わりがない。二次会は文壇バー『bura』へ。明日(20/14 )の講演会は大丈夫なのだろうか、と心配になるが、お構い無し。講演会は、大盛況のうちに、無事、終えたようで、ホットする。私も参加しようと思っていたが、二日酔いで目が覚めず。『 流されない読書』を手に取り、ベッドで読む。岩田温の本質がここにある、と思う。イデオロギーから存在論へ。政治学者=岩田温先生の今後の益々の活躍を期待しよう。いずれにしろ、岩田温氏は、我々の期待を遥かに超えていく逸材である。