文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

「毒蛇山荘」で、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(5)。吉本隆明の「大衆の原像」論と「大衆からの孤立」・・・

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「毒蛇山荘」で、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(5)。

そろそろ東京へ戻らなければならないのだが、その気に、なかなかなれない。薩摩半島の山奥にある「毒蛇山荘」の「田舎暮らし」が、快適過ぎるのだ。もう秋の気分だ。さすがに日中は、まだ暑いが、朝晩は、かなり冷え込む。というわけで、今日も「毒蛇山荘」で、浦島太郎のように、帰るのも忘れて、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読んでいる。昨日は、ミノン峠という峠を越えて 、つまりひと山越えて、枕崎へ行ってきた。駅前のレストランでランチを食べ、温泉に入り、スーパーで、カツオのたたきと薩摩揚げ、そして焼酎「白波」を買って、再び路線バスで帰ってきた。「これでいいのだろうか? 」「これでいいのだ!」と呟きつつ、焼酎「白波」を呑みながら、『 全対話』を読んでいると、隣人(幼友達)が訪ねてきた。「まだ、いたの?」というわけだ。心配していたようだ。「今日は枕崎へ行ってきた」「明日か明後日、新幹線で帰ることにした」と言うと、安心したようだ。「呑む?」と誘うと、「今日は、これから料理をしなければならない」と言う。彼には、いつも世話になっていることもあり、まだ明るかったので、近くのバス停にあるコンビニ(茶店?)に行き、焼酎「あらわざ」の一升瓶を買い、届けた。これまでのお礼と、これからもよろしく、と。前にも書いたが、彼は、私より二、三歳、歳下だが、地元の「薩南工業」という高校を卒業後、日立製作所に就職、結婚、子育て、そして家をたて、定年後、老母の看護も兼ねて帰郷して、晴耕雨読の生活を送っているという、平凡な人生かもしれないが、いたって堅実な男である。ところで、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』に話を戻そう。吉本隆明の根本思想の一つに、「大衆の原像」という概念がある。たとえば、吉本隆明は、『 転向論』という有名な論文で、近代日本の知識人(大学教授)の「転向」を厳しく批判しているが、そこで、転向の根本原因は「大衆からの孤立」であると分析している。日本の近代知識人は、故郷や下町を出て、東京の一流大学へ進学、卒業するに従って、上昇志向型インテリの常として、田舎や下町に住む「大衆」を見下しはじめる。その結果、「遅れた、無知な大衆」に、上から目線で、俺たちが、新しい知識や学問を教えてやるのだ・・・(啓蒙主義)と、錯覚、妄想するようになる。そこで、権力側からの「弾圧」や「脅迫」を受けると、恥も外聞もなく、あっさりと「転向」する。そして 、見下していたはずの「無知蒙昧な大衆」たる父や母に泣きつく、というわけだ。彼等の学問も思想も、地に足がついものではなかった、ということだろう 。原因は、「大衆からの孤立」・・・。「大衆の原像」、あるいは「大衆からの孤立」、この二つの吉本隆明の根本思想に 、私は 深く共感する。僭越かもしれないが、私の思想的原点にも、この吉本隆明的な「大衆の原像」論があると思っている。田舎育ちの私が、東京育ちの小林秀雄江藤淳の文学や思想に共感できるのも、彼等の思想的原点に、同じような「大衆の原像」論があるからだ。小林秀雄は、「国民は黙って事変に処した」(「満洲の印象」)と言ったが、小林秀雄が言う「国民」は、吉本隆明の言う「大衆」、あるいは「大衆の原像」に限りなく近い。小林秀雄は、「大衆」たる両親を尊敬し、畏怖していた。小林秀雄の文学や思想には、近代日本の上昇志向型インテリによくあることだが、無知で平凡な「大衆」である両親を見下すような表現はない。江藤淳も同じだ。江藤淳は、我々とは異なり、山の手の中産階級に属していた。「皇后・雅子」の母親は、江藤淳とは従姉妹である。しかし、江藤淳は、父と母や、さらには、その先祖たちのことまで、愛情を込めて描いている(『一族再会 』)。江藤淳の先祖たちは、佐賀や長野の山奥の農村地帯の出身であった。農村地帯に育った秀才が、東京へ出て軍人になる。江藤淳は、自分の思想的原点を求めて、佐賀や長野の農村地帯にまで足を伸ばしている。私が、深い思想的共感を持って、江藤淳を読むのは、江藤淳の「大衆の原像」たる先祖たちの故郷を訪ねて、山奥の寒村にまで足を伸ばす江藤淳の姿に、自分を重ねるからである。そういう意味で、江藤淳は、単純素朴な上昇志向型インテリではない。内田樹小谷野敦、与那覇潤・・・等のように、江藤淳を、組みしやすし、と見て、安易に誹謗中傷する奴らこそ、薄っぺらな上昇志向型の俗物インテリに過ぎない。勝負になるわけがない。(続く)

「焚き火」をしながら、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(4)。 今日は、朝から、落ち葉や枯れ枝を集めて焚き火をしている。そろそろ、私の「夏季休暇」も終わりだ 。我が「毒蛇山荘」ともお別れが近づいて来た。というわけで、最後の庭掃除で、大々的な焚き火となった。といっても、九月には、「鹿児島大講演会(岩田温講演会)」があり、また戻らなければならないのだが、とにかく大掃除と焚き火を・・・。ところで、昨日の続きだが、世の中には、「江藤淳嫌い」が、大量に存在する。私は、これまで、「江藤淳が好きだ」とか「江藤淳か

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「焚き火」をしながら、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(4)。

■今日は、朝から、落ち葉や枯れ枝を集めて焚き火をしている。そろそろ、私の「夏季休暇」も終わりだ 。我が「毒蛇山荘」ともお別れが近づいて来た。というわけで、最後の庭掃除で、大々的な焚き火となった。といっても、九月には、「鹿児島大講演会(岩田温講演会)」があり、また戻らなければならないのだが、とにかく大掃除と焚き火を・・・。
■ところで、昨日の『 吉本隆明 /江藤淳全対話』論の続きだが、世の中には、「江藤淳嫌い」が、大量に存在する。私は、これまで、「江藤淳が好きだ」とか「江藤淳から大きな影響を受けた」と公言する人には、ただ一人の例外を除いて会ったことがない。その、ただ一人の例外が、早稲田大学政経学部の学生だった「岩田温」である。岩田温以外で、江藤淳が好きだという人に、私は会ったことがない。だから、私は、江藤淳について、他人とあまり話をしないことにしている。「江藤淳」の名前を出すだけで、気まずい雰囲気になるし、無理して江藤淳について熱く語っても、無駄だからだ。逆に「江藤淳が好きだ」という人に会うと、「ひょっとしたら、この人、才能があるんじゃないかしら・・・」と思ってしまう。言い換えると、江藤淳は、多くの人に嫌われているというところに、江藤淳の批評家、思想家としての「凄さ」と「恐ろしさ」があると私は思っている。
江藤淳には、「凡庸な凡人」(笑)たちに、「嫌悪感」をもよおさせるような「何か」がある。逆に、江藤淳の「凄さ」と「恐ろしさ」が分かるということは、吉本隆明柄谷行人を持ち出すまでもなく、その人自身が「何者か」であることを示している。かっては小林秀雄がそうだった。今でも、「小林秀雄」が好きだと公言する人はあまりいない。さすがに、「小林秀雄」が嫌いだと公言する人は少なくなったが、それでもいないわけではない。「江藤淳の嫌われ方」と「小林秀雄の嫌われ方」はよく似ている。その意味で言うと、吉本隆明は、あまり嫌われていない。吉本隆明が嫌いだと公言する人はいないわけではないが、極めて少ない。私は、これは、「吉本隆明の弱点」(笑)だと思っている。吉本隆明は、俗に言うところの「いい人」なのだ。少なくとも、江藤淳は、大衆受けするような「いい人」ではない。
■しかし、私は、「江藤淳嫌い」の人を見ると、気の毒になる。批評家、あるいは思想家としての江藤淳の「凄さ」も「恐ろしさ」もわからないのか、と。それは、「文学」や「思想」が分からないということではないのか、と。言い換えると、お前には、才能がないということではないのか、と。私は、『江藤淳大江健三郎 』で、江藤淳をボロクソに批判・罵倒した小谷野敦のような人を見ると、「ああ、東大大学院博士課程修了の博士でも、才能がないんだな ・・・」と思ってしまう。内田樹東浩紀も、小谷野敦と同類だろう。
江藤淳吉本隆明も「東大卒」ではない。今や、「学歴ロンダリング」の巣窟となっている「東大大学院」出身でもない。この事実は意外に重要である。『 吉本隆明 /江藤淳全対話』で、二人が、「東大出身」の文芸評論家・蓮實重彦柄谷行人を厳しく批判している箇所がある。「知的過ぎる」「知性だけで批評は出来ない」・・・と批判した。江藤淳=吉本隆明世代に続く 、次の時代の知的スターとして台頭しつつあった二人を、批判している。私は、この批判は当たっていたと思う。蓮實重彦柄谷行人はともかくとして、彼等に影響を受けた世代であろうと思われる内田樹東浩紀小谷野敦・・・等を、さらには呉座勇一や与那覇潤 ・・・等を見ていると、江藤淳吉本隆明の批判は、ピタリと当たっていることが分かる。いずれも、「頭でっかちの青二才」ばかりだ。
■東大卒で博士号取得者が、文壇 、論壇 、ジャーナリズムにあふれかえっているのが 、ネット右翼ネット左翼の時代と呼ばれる現代である。言い換えれば、東大卒の博士号取得者たちは、学歴や経歴は立派だが、思想的レベルは、ネット右翼ネット左翼と同等か、それ以下だということである。江藤淳吉本隆明が、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』で予言した通りだろう。
■先頃、「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』」事件というものがあった。私は、事件そのものにはまったく興味ないが、主催側の助言者(?)に、つまり津田大介の補佐役(?)に、東浩紀がいたことに興味を持った。東浩紀は、どう対応するのか。闘うのか、逃げるのか。承知のように 、事件が拡大してくると、東浩紀は、責任を津田大介に押し付けて、逃げた。えっ。そこで逃げて、どうすんのよ。ここがロドスだろう。ここで闘えよ。しかし、これが、江藤淳吉本隆明が、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』で批判した「知性だけでは批評家は勤まらない」、「頭でっかちの青二才」の見本である。与那覇潤とかいう「東大バカセ」(笑)が、先頃、行われた「江藤淳シンポジウム(於・専修大学)」で、「江藤淳には『東大コンプレックス 』があったのでは?」と発言したらしい。言うことに事欠いて、よく言うよ。与那覇潤よ、お前らには「才能」がない。「才能コンプレックス」はあるようだが・・・。
(続く)

『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(3)。 私が 、夏季休暇の旅のお供に、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を選んだのは、もちろん本文を、再読したかったこともあるが、実はそれ以上に、この『 吉本隆明 /江藤淳全対話』の解説を 、対談形式だが、書いている内田樹と高橋源一郎に、逆説的興味があったからだ。

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吉本隆明 /江藤淳全対話』を読む(3)。

私が 、夏季休暇の旅のお供に、『 吉本隆明 /江藤淳全対話』を選んだのは、もちろん本文を、再読したかったこともあるが、実はそれ以上に、この『 吉本隆明 /江藤淳全対話』の解説を 、対談形式だが、書いている内田樹高橋源一郎に、逆説的興味があったからだ。特に内田樹について。最近、江藤淳の復活が話題になりつつあるが、江藤淳の文庫本の解説が、ちょっとおかしい。江藤淳を 高みから見下したかのような感想を述べるような解説文が多い。その代表的論者が内田樹である。そして、不思議なことに、本書『 吉本隆明 /江藤淳全対話』の解説も内田樹である。何故、内田樹なのか。解説文の書き手として相応しくないのではないかと、私などは思うのだが、わざわざ、「江藤淳嫌い」と思われるような論者を選び 、江藤淳を見下した上に、江藤淳をシニカルに批判させるということには、担当の編集者たちには、何か考えがあるのだろう。果たして、どういう考えがあるのか。私は、うすうす分かっているが、あまり 先を急がないことにする。少なくとも、吉本隆明は、この全対話を読むまでもなく、「江藤淳」という文芸評論家を、多くの点で意見を異にしつつも、高く評価している。江藤淳が突然、自死した時の「追悼文」も、思想的同志に捧げるような愛情溢れた追悼文だった。それに対し、私は、最近の編集者や評論家、思想家、学者たちは、「江藤淳」という文芸評論家の偉大さが、まったく分かっていないのではないかと想像する。吉本隆明柄谷行人のような一流と思われている思想家や批評家が、揃って「江藤淳」を高く評価する以上、「お前らセンスがないね」と言われるのが怖いから、一応、分かったような振りをして、認めないわけにはいかない、というのが実状だろう。だから、解説文が頓珍漢になるのである。
(続く)