山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 3 )。 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 島津久光は、異母兄の藩主・島津斉彬とは仲が悪かった訳ではない。たしかに、二人の父親にあたる島津斉興と島津斉彬とは、険悪な関係にあった。島津斉興は、長男である島津斉彬に 、なかなか藩主の地位を譲ろうとはしなかった。そのために、二人の間にはトラブルが絶えなかった。島津斉彬が、無理矢理、強引に、藩主の地位を奪い取り、父親を隠居に追いこんだのも、薩摩藩の密貿易を幕府に密告し、調所広郷( ずしょ・ひろさと)を服毒自殺に追い込


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島津久光小松帯刀大久保利通( 3 )。
山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】

島津久光は、異母兄の藩主・島津斉彬とは仲が悪かった訳ではない。たしかに、二人の父親にあたる島津斉興島津斉彬とは、険悪な関係にあった。島津斉興は、長男である島津斉彬に 、なかなか藩主の地位を譲ろうとはしなかった。そのために、二人の間にはトラブルが絶えなかった。島津斉彬が、無理矢理、強引に、藩主の地位を奪い取り、父親を隠居に追いこんだのも、薩摩藩の密貿易を幕府に密告し、調所広郷( ずしょ・ひろさと)を服毒自殺に追い込むなど、ほぼクーデターに近いものだった。島津斉興は弟の島津久光を溺愛していたので、島津斉彬を無視して、島津久光に次期藩主の地位を譲ろうとしていると見られていた。それが原因で、いわゆる「お由羅騒動」も起きたし、薩摩藩内部の内部抗争も絶えなかった。しかし、そうではあったが、島津斉彬島津久光の兄弟が、不仲だったわけではない。西郷中心の西郷史観では、不仲だったと思われれがちだが、少なくとも、二人の関係は険悪ではなかった。藩主の島津斉彬が、不審の急死をした時も、弟に、島津久光の息子の忠義を次期藩主にするように遺言している。島津久光は 、兄の遺言と遺志を受継いでいくことを固く誓った。以後の島津久光の行動は「兄の遺志を受け継ぐ 」という一点にあった。しかし、西郷は、島津斉彬の急死は、島津久光一派による毒殺の可能性を疑っていた。西郷は 、島津久光を信用していなかった。いつのまにか、島津久光と西郷の関係は、二人とも、「 島津斉彬の遺志 を受け継ぐ」ことにおいては変わりはなかったが、最低、最悪な、「 疑心暗鬼 」で、「 険悪」なものになっていった。この点に関する限り、西郷の勘違いであった。





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■ 小林秀雄とベルグソンとマルクス。 ■ 小林秀雄が、「マルクス主義」ではなく「マルクス」に注目するようになったのは、誰の影響だろうか。おそらくベルグソンの影響だろうと言いたいところだが、私はそうではないと思う。たしかに小林秀雄は、学生時代、ベルグソンを熟読したと言っている。しかし、それは、ベルグソンから、何かを学んだということとは少し違う。小林秀雄は、ベルグソンを読むことによって、自己の思想を強化し、再確認( 理論武装)したとしても、それは、

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小林秀雄ベルグソンマルクス
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小林秀雄が、「マルクス主義」ではなく「マルクス」に注目するようになったのは、誰の影響だろうか。おそらくベルグソンの影響だろうと言いたいところだが、私はそうではないと思う。たしかに小林秀雄は、学生時代、ベルグソンを熟読したと言っている。しかし、それは、ベルグソンから、何かを学んだということとは少し違う。小林秀雄は、ベルグソンを読むことによって、自己の思想を強化し、再確認( 理論武装)したとしても、それは、ベルグソンの思想や哲学を学んだこととは違う。小林秀雄の内的思想は、ベルグソンを読む前からある程度、確立していた。小林秀雄は、その小林秀雄的な内的思想を、ベルグソンを読むことによって、さらに強化し 、理論武装したと言ってよい。
小林秀雄が文学に興味を持ち、次第に熱中し始めた時から、小林秀雄的な思考法は、既に確立されていたと思う。我々は、すぐ欧米の思想家や哲学者などからの影響と言うことを考えがちだが、そして、それで、分かったと思いがちだが、むしろ、日本的な思想に適合するものを取捨選択している可能性がある。たとえば、日本人は、フランス文学やドイツ文学、英米文学よりも、ドストエフスキーロシア文学が好きだが、それは、おそらくドストエフスキーロシア文学の方が、日本的な思想に適合するからだろう。小林秀雄は、フランス文学には「存在」がないが、ロシア文学には「存在」があると言った。「 存在 」とは何か。それは、おそらく、概念的思考や理論的思考が、見失う何物かである。日本人もロシア人も、概念的思考や理論的思考より、存在論的思考を重視しているのではないか。概念的思考による論理的一貫性を求める思考が、人を、マルクス主義者にするのだ。
小林秀雄ベルグソも、論理的一貫性や理論体系の一貫性などを求めてはいない。対象としての存在への肉迫を求めていた。間違いや論理破綻などを恐れてはいなかった。小林秀雄ベルグソンの思考の厳密性というのは、間違いや論理破綻を恐れずに、存在に肉迫するということであった。小林秀雄は、『 感想( ベルグソン論 )』に書いている。

ベルグソンが、いつも目指していたのは、哲学者としての表現の厳密性にあった。彼の言う厳密性とは、説明がその対象に固着している、つまり、説明とその対象の間に、他の説明の入り込む間隙がないという意味である。そういう説明の手本は科学が提供しているのであって、科学と哲学とは違うからと言って、手本が手本でなくなるわけにはいかない。》

ここで言うところの「 科学 」は、合理主義や実証主義としての通俗科学、いわゆる日常科学のことではない。既成の理論の一貫性などにこだわらずに、次々と新理論を切り開き、新境地に突き進んでいく先端科学のことだろう。
言い換えると、フランス文学に「存在」がない 、と小林秀雄が言うのは、このことであろう。つまり、「説明がその対象に固着している」「説明とその対象の間に、他の説明の入り込む間隙がない 」のが科学であるとすれば、科学には、存在があるということである。常に存在と直接的に交流を深めているということだろう。大学でフランス文学を専攻し、ランボーボードレールヴァレリーなどについて多数の論文やエッセイを書いているにも関わらず、フランス文学よりもドストエフスキーなど、ロシア文学に惹かれるというのは、そういうことだろう。ドストエフスキーロシア文学には、科学と同様に存在があるということだ。
ドストエフスキーは、「たとえ誰かがキリストは真理の埒外にいるという事を僕に証明したとしても、僕は真理ととともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたいのです」(小林秀雄カラマーゾフの兄弟」から)と言っている。
「真理は キリスト トと共ににないとしても、私は、キリトストとともにいたい」と言うのは、「 真理 」よりも「 存在 」を取る と、そういう意味だろう。
小林秀雄ベルグソンも、科学に対して文学や哲学を対置して、分楽や哲学を擁護したように見えるが、そうではない。むしろ科学を重視した哲学者であり、科学を重視した文学者だった。むろん科学における実証主義や合理主義を擁護したわけではない。小林秀雄ベルグソンが重視した科学とは、理論的一貫性や体系の整合性にとどまっている科学ではない。理論的一貫性や体系の整合性を踏み越えて行く科学であって、科学革命を推進していく先端科学の方である。
小林秀雄は、敗戦直後、「近代文学」の座談会で、埴谷雄高平野謙らを相手に、日本の敗戦について、「 僕は莫迦だから反省しない。利口な奴はたんと反省してみればいいじゃないか。 」と言っている。小林秀雄は、大東亜戦争に反対ではなかった。むしろ一般庶民と同様に、戦争に賛成であり、日本の勝利を疑っていなかった。小林秀雄の判断は、間違いだったわけだが、小林秀雄は、それをみとめなかった 。小林秀雄にとっては、間違いの中にこそ「真実 」はあったのだ。ドストエフスキーが真理よりキリストを選んだように、真理としての平和主義よりも、実存体験としての軍国主義を選んだのだ。
結果としての敗戦に直面して、戦時中の軍国主義の間違いを反省し、平和主義へ転向して行く戦後のインテリ文化人たちと反対の方向に、小林秀雄は向かった。極端な言い方をすると、軍国主義から平和主義へ転向するのではなく、あくまでも戦時中の軍国主義者にとどまったのだ。
小林秀雄は、自分の思考に忠実だった。むろん、間違いにも忠実だったのだ。間違いを、反省と称して、半ば隠蔽したまま、すぐ新しい流行思想やイデオロギーに乗り換えて満足している、いわゆる、深く、物を考えない人 を、小林秀雄は拒絶した。

ベルグソンが、哲学に求めたのは、根本では同じ性質の厳密性であって単なる理論の一貫性ではない。いや、哲学者が、その表現の厳密性を欠くのは、何を置いても理論の一貫性や統一性に固執したがるからだ。哲学体系は、その対象を尽くそうとして出来上がっていない。》

小林秀雄が、ベルグソンから学んだとすれば、この表現の厳密性だった。小林秀雄ベルグソンも、人間が起こす間違いや錯覚を、決して排除したり 、切り捨てたりはしなかった。間違いや錯覚にも、それなりの必然性がある。間違いをおかした人や民族にも、それなりの理由や根拠があるはずだ。ところが、自分の犯した間違いやミスを、理論の一貫性や統一性よりも重視する人達は、間違いの必然性に、正面から向き合うことをしない。そういう人達にとっては
現実より理論の方が大事なのだ。理論の一貫性や統一性という観点から考えるならば、間違いやミスは排除すべきものだというわけだ。しかし、それが、自分の思考であったことに変わりはない。そこから簡単に逃げて済む問題ではない。
小林秀雄は、『 感想』の冒頭で、戦争直後、母親が死んだ後の話として、二つの体験談を書いている。死んだ母親が蛍になった話と、酔っ払って御茶ノ水の駅から転げ落ちたいが怪我一つしなかった話を 、童話的話として書いている。母親が助けてくれた、と。このふたつの話は 共に、他人が聞けば、荒唐無稽な笑い話に過ぎないが、小林秀雄本人は、他人は信じてくれないだろうが、という前提の元に、大真面目に書いている。そして、こう書いている。

《この時も、私は、いろいろと反省してみたが、反省は決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった。》

反省と経験。反省とは何か。経験とは何か。その差異はなにか。反省とは、事後的に理論的一貫性や整合性を求めて右往左往する思考である。経験とは、既に体験した、現実にあった思考である。そして、「 反省は決して経験の核心には近付かぬ」ということ。我々の現実生活は、経験の積み重ねによって成り立っている。喜びも悲しみも経験の中にある。
小林秀雄ベルグソンは同じことを言っている。彼等が言っていることは、理論の一貫性よりも、間違っているかもしれないが、まぎれもなく、現実に経験したという経験的事実を重視するということだ。この小林秀雄=ベルグソンの思考法は、「マルクス主義」よりも「マルクス」、ないしは「マルクス的思考 」を重視するという小林秀雄の「マルクス論」の思考法に直結している。
むろん、それは「 マルクス論」だけに限らない。「 プラトン論」でも「 デカルト論」でも、そして、「 本居宣長論」でも「 正宗白鳥論 」でも 、小林秀雄は、常に同じことを言っている。小林秀雄は、「プラトン主義( プラトニズム)を乗り越える」とか、「プラトン主義( プラトニズム)を 超克する」とかいうような言い方をしていない。
小林秀雄は、『 感想』で、こう書いている。

《直観から分析への道は開けているが、分析から直観へ達する方法は一つもない。これは、ベルグソンの思想の根本にある考えである。》

「 直観から分析へ」と「分析から直観へ 」はどう違うのか。むろん、直観主義と分析主義の対立などではない。
( 続く)

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【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 ■島津久光と小松帯刀(こまつ・たてわき )と大久保利通(2)。 西郷の流刑時代、薩摩藩はどうなっていたのか。薩摩藩は、西郷不在の中でも、それなりに 、着々と、明治維新に向けて、中央政界でも、積極的に政治工作をしていた。なにもかも西郷がやったというのは、嘘である。島津斉彬亡き後の薩摩藩の藩主は島津忠義が継いだが、忠義は19歳とまだ若く、実質的には、忠義の実父に当たる島津久光が実権を握り、「島津久光政権 」を確立し、補佐役として西郷よりも若い薩摩藩士の小松帯刀(

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山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】
島津久光小松帯刀(こまつ・たてわき )と大久保利通(2)。

西郷の流刑時代、薩摩藩はどうなっていたのか。薩摩藩は、西郷不在の中でも、それなりに 、着々と、明治維新に向けて、中央政界でも、積極的に政治工作をしていた。なにもかも西郷がやったというのは、嘘である。島津斉彬亡き後の薩摩藩の藩主は島津忠義が継いだが、忠義は19歳とまだ若く、実質的には、忠義の実父に当たる島津久光が実権を握り、「島津久光政権 」を確立し、補佐役として西郷よりも若い薩摩藩士の小松帯刀( こまつ・たてわき )や大久保利通を抜擢し、政権運営に当たっていた。西郷中心の「西郷中心史は、この「島津久光政権 」の実相は見えてこない。実は、島津久光政権は、かなり重大な政治的、歴史的役割を果たしている。しかも、この島津久光政権は、実質的には「島津久光小松帯刀大久保利通政権 」であった。つまり、西郷抜きの薩摩藩の新政権だった。しかも、この政権の政策実行者として、政権運営を担っていたのは、小松帯刀( こまつ・たてわき )という、西郷や大久保よりも年下の薩摩藩士であった。しかし、若いとは言っても、小松は、薩摩藩の名門の出で、西郷や大久保とは、その身分、立場が 最初から違っていた。小松は、若くして、島津久光の側近中の側近となり、「 お側役」から「 家老」、そして「 城代家老 」にまで出世していく。つまり、小松は、島津久光政権下で、政権を束ねる実質的な政治的リーダーだった。京都に邸宅を構え、朝廷工作や他藩との外交交渉の役割も担っていた。いわゆる「 薩長同盟 」が話し合われた舞台も、最終的に「薩長同盟」が結ばれた舞台も、京都の「小松邸」だった。



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