山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

山崎行太郎へのメール→dokuhebi31517@yahoo.co.jp

(続25)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。「 LGBT騒動 」で、あれほど自信満々に、「新潮45」に掲載されていた杉田水脈論文や小川榮太郎論文を 批判=罵倒していた面々が、小川榮太郎が『 月刊HANADA』で反論と反撃を始めると、ひたすら無反応、沈黙、無視。今後も反応する可能性は薄い。( 続く)


(続25)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。「 LGBT騒動 」で、あれほど自信満々に、「新潮45」に掲載されていた杉田水脈論文や小川榮太郎論文を 批判=罵倒していた面々が、小川榮太郎が『 月刊HANADA』で反論と反撃を始めると、ひたすら無反応、沈黙、無視。今後も反応する可能性は薄い。


都合が悪くなると沈黙するに限るというわけか。だから、お前等、三流芸能人コメンテーターはダメなんだよ。いや間違った。文壇=論壇の三流文化人は、だった。特に、Twitterで、「 公衆便所の落書き」という名言で小川榮太郎論文を切り捨て、さらに「新潮」11月号で、「 小川榮太郎よ、お前は文芸評論家じゃないよ」とでも言うかのように、文壇的権威を振りかざし、高圧的な批判=揶揄をくりかえした作家の高橋源一郎センセイだが、その後、沈黙している。Twitterの更新なし。私の理解では、高橋源一郎Twitterで、「公衆便所の落書き だ」「読まなきゃよかった 」と、公然とつぶやいた時点が、この「 LGBT騒動 」と「『新潮45』廃刊事件」の始まりだった。高橋源一郎くん、おかしいではないか。腑に落ちない。むろん、高橋源一郎だけではない。矢野優「新潮」編集長も内田樹も、この問題で売り出し中の三文ライター武田砂鉄( 屑鉄? )も、ほぼ全員、沈黙。小川榮太郎が、あらゆる方法を使って、即座に反撃(反論)を開始ししたのと対照的。この「 LGBT騒動 」と「『新潮45』廃刊事件」に関する論争は、小川榮太郎の「一人勝ち」ではないのか。ドサクサにまぎれて、「反論の価値なし 」とかなんとか言い出すかもしれないから、ここで、あらかじめ、言っておく。それじゃ、もっとミジメじゃないのか。それとも、ひたすら沈黙して、嵐の過ぎ去るのを待つつもりか。だが、世間の愚衆(笑)どもが忘れても、私は、忘れない。私は、暇人だから、さらに追及していく。時間はタップリある。私見によれば、この問題にはその価値がある。私は、シロートは相手にしない。高橋源一郎内田樹等を中心に追及していく。証拠や文献が、有り余るほど残っているからだ。「沈黙」も「逃げ」も無駄だよ。
( 続く)

私が、ここに書いている日記の断片は、他人にどう読まれているか知らないが、私自身にとっては、かなり重要な意味を持っている。Twitterに「 クダラナイ」という書き込みがあった。「 クダラナイのはお前が馬鹿だから。馬鹿は読むな。消えろ!」とリプライしておいたが。( 続く)

p私が、ここに書いている日記の断片は、他人にどう読まれているか知らないが、私自身にとっては、かなり重要な意味を持っている。Twitterに「 クダラナイ」という書き込みがあった。「 クダラナイのはお前が馬鹿だから。馬鹿は読むな。消えろ!」とリプライしておいたが。申し訳ないが、私は、他人や読者のために文章を書いていない。私は、私のために書いている。私のネット日記は、自分で言うのもなんだが、既に膨大な量になっている。私は、ライフワークとして書いている。『毒蛇山荘日記 』という形で、いつでも出版出来る状態にある。『毒蛇山荘日記 』は、私の数少ない著作の内の『 代表作』(笑)になるはずだ。もちろん、私が、出版出来ないままに死んでも、誰かが出版してくれるはずだ。あるいは、永遠に出版出来なかったとしても、構わない。ネット空間には、半永久的にも残るはずだから。出版されたから本になるのではない。平安時代に出版社は存在しなかった。しかし、『 源氏物語』も『枕草子 』も残っている。私がネットに文章を書き始めたのは、パソコンが大衆化し、Windows95が登場した頃である。私は、それまで、文章を書いて 、文章で生きていこうと思っていたが、まだパソコンを持っていなかった。ワープロ全盛の時代だった。その頃、大学から、来年の授業予定を、パソコンメールで送ってくれと言われて、大慌てしたことがある。その頃から、しきりに、「ブログ」や「2ちゃんねる」 、「Twitter」などの文章を、「便所の落書き 」に過ぎないという人たちがいた。雑誌や新聞などからの注文原稿を書いている専門家たちだった。いわゆる作家や評論家あるいは業界人たち、つまりプロの文筆家たちである。高橋源一郎等のように、今でも、そういう人はいる。小川榮太郎の文章は、文章という商品ではない、「公衆便所の落描き」だというわけだ。文章=商品と公衆便所の落書きとの差異は 、何処にあるのか。実は、私が断定するが、何処にもない。しかし、未だに、商業誌に掲載された文章は「宝石」だが、ネットに書かれた文章は「 公衆便所の落書き」だと、思っているらしい人は少なくない。むろん、私は、そうは考えなかった。「便所の落書き ? 」、そうかもしれないが、私のような、人付き合いの悪い、無精な、無計画な人間には、ネットやブログ、TwitterFacebookなどは、最も適した文章表現方法だった。汚い文字はワープロで克服出来たが、出版社や新聞、雑誌等との営業や交渉は 、ワープロでは出来なかった。私には、それらは、かなり億劫な、面倒臭い仕事だった。私は、保守派を自認しながら、吉本隆明を愛読し、彼の「 自立メディア論」を信奉していたから、自分なりに、その自立メディアの方向を探っていた時、パソコンとネットという新世界に出会った。ユーレカ( 我発見セリ)、であった。人間関係もカネも労働力も不要。私は、これで行こうと決断した。そして、現在まで、その道を突き進んで来た。出版社や編集者の顔色をうかがうような生活から訣別出来たことに満足した記憶がある。以後、私は、『 枕草子』を書いた清少納言や、『徒然草 』を書いた吉田兼好と同じように、あるいは同人誌『 試行』に、代表作『言語にとって美とはなにか 』を延々と連載し続けた吉本隆明のように、自由気侭に、書きたいこと、言いたいことを、誰に気兼ねすることなく、書いているつもりだ。逆に、売れっ子の作家や評論家たちは、私から見れば、出版社や新聞社の奴隷になって、不自由な言論空間に閉じ込められている「哀れな人種」にしか見えない。彼等が 、読者の信頼を失うのは当然である。ちなみに、私の、多くの才能ある友人や同業者たちは、表舞台から排除され、消えていった。私は、高橋源一郎が言うところの「 公衆便所の落書き」のようなブログ『 毒蛇山荘日記』を、ネット空間に書き続けることによって、生き残った。「『新潮45』廃刊事件」の馬鹿騒ぎを、そういう私の眼から見ていると、真相=深層が良く見える。私の書く文章に意味があろうとあるまいと、他人や読者が何と言おうと、私は、私のために書き続けるのである。こんなに楽しいことはない。( 続く) ( 写真は、江古田には珍しく、私と同様に上品なマスター(笑)がいる「学生街の喫茶店」。あべ静江の『 コヒーショップで』のモデル?)

 

 

 

(続25)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。内田樹の役割。矢野優「新潮」編集長が書いた編集後記は、明らかに、文芸誌の編集後記を逸脱していた。差別に抗議する? 文芸誌が、「社会的正義 」や「 政治的正義( ポリ・コレ ) 」というようなイデオロギーを主張するようになったら、文芸誌の自殺行為だろう。矢野優「編集後記」の背後にいたのは誰か? 内田樹もその一人だった。( 続く)


(続25)「新潮45」を廃刊に追い込んだ「 LGBT騒動 」について。内田樹の役割。矢野優「新潮」編集長が書いた編集後記は、明らかに、文芸誌の編集後記を逸脱していた。差別に抗議する? 文芸誌が、「社会的正義 」や「 政治的正義( ポリ・コレ ) 」というようなイデオロギーを主張するようになったら、文芸誌の自殺行為だろう。矢野優「編集後記」の背後にいたのは誰か? 内田樹もその一人だった。

エセ右翼もエセ保守もダメだが、エセ左翼もエセ・リベラルもダメだというのが、私の基本的認識である。両陣営とも思想的に堕落しているからだ。「新潮45」に掲載された杉田水脈論文や小川榮太郎論文を、全否定する矢野優『新潮』編集長の「編集後記」の背後には、高橋源一郎だけではなく、内田樹平野啓一郎等、有名作家や有名文化人等がいたらしい。彼らの強い支持のもとに、矢野優編集長による「 編集後記」は書かれたものとみていい。その中でも、内田樹の存在は大きかったもようだ。内田樹は、今回の「 LGBT騒動 」と「『新潮45』廃刊事件」にどのように関わっていたのか? 早い段階で 『新潮』編集部から相談を受けたた内田樹は、「新潮45」の廃刊を主張したらしいのだ。

ーーー以下引用ーーー
新潮社の友人からメール。社内の動きについてお知らせ頂きました。新潮社出版物への不買運動まで始まった以上、品位ある出版社という評価を守りたいなら、謝罪の上、『新潮45』は廃刊するのが適当でしょうとご返事しました。( 内田樹)
ーーー引用終了ーーー

えっ。品位ある出版社?(笑)。『週刊新潮 』は「 下品なツッコミ」がウリだったんじゃないの!
それにしても、この内田樹の回答には首を傾げざるを得ない。「不買運動まで始まった以上・・・ 」とは、どういうことか。不買運動と闘うのが出版社じゃないのか。とても言論人とは思えない。「 不買運動に屈服して謝罪し 、「新潮45」を廃刊する」、これは、あまりにもご都合主義的な、下品極まりない商売人的発想ではないのか。内田樹のことを「 知の巨人 」と言う人もいるらしいが、それは、「 痴の虚人」の間違いじゃないのか。内田樹のような「 痴の虚人 」が、我が物顔で論壇や文壇の表通りを闊歩しているところに、論壇や文壇の地盤沈下や衰退、堕落の根本原因がある。内田樹が、2004頃、『 ユダヤ文化論』とかいう通俗的読み物評論で、「新潮社」主催の「 小林秀雄賞 」を受賞し、文芸誌等に頻繁に登場するようになった頃から、文芸誌は急速に文学性や批評性を失い、堕落 し、地盤沈下し 始めた。内田樹が、文芸誌等に、せせり出してきた背景には、村上春樹擁護のムードがある。言い換えれば、村上春樹ブームに多くのまともな文芸評論家たちは批判的、否定的だった。文芸誌編集部や出版社サイドは、爆発的売り上げを記録していた村上春樹を批判して欲しくなかったのだろう。文芸評論家は、文芸誌から次々と排除されていった。その代わりに登用されたのが、岡田樹等のような、村上春樹を単純素朴に褒め称える
無能な大学教授連中であった。内田樹等には、文学性も批判性もなかった。文学性と批評性を失った文芸誌が、大学紀要レベルに堕落し、心ある読者から見放されていくのは当然だった。今回の「 LGBT騒動 」や「『新潮45』廃刊事件」においても、内田樹の思考の凡庸性=通俗性は明らかである。内田樹が、そうではないというなら、小川榮太郎を相手に、徹底的に論争し、論敵が二度と立ち上がれないように、打ちのめしてみよ、と言いたいが、無理だろう。屁理屈を並べて逃げるだろう。武道家を自称しているが、本質は、闘うことの出来ない口先ばかりのヘタレなのだ。しかし、残念ながら、今回は逃げられないだろう。内田樹は、私も関わっている「月刊日本」という月刊誌にもインタビューで登場し、「 LGBT騒動 」や「『新潮45』廃刊事件」について語っている。実にクダラナイ。俗習との結託。愚衆の愚論。内田樹の意見や主張は、明らかに、私とは異なっている。