山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『小説・南洲伝』など。

【毒蛇山荘だより】 やっと毒蛇山荘に到着。昨日は、兄の三周忌を終えて暗くなってから帰宅。なんと電気がつかない。手探りで、室内の電気メーターを点検してみるが、無理。初めての経験。仕方なく、暗闇の中で、焼酎をガブ飲み。そのまま就寝。夜明けを待つしかない。朝、目覚めて、庭に出てみると、 菜の花の咲く毒蛇山荘が、迎えてくれました。早速 、九州電力に電話。何らかのトラブルで、九州電力の方で、ストップしていたらしい。一時間後に、業者が来訪。無事、電気がついた。ああ、良かった。銀行の自動引き落としに、何かトラブルがあっ

・・・・・・・・ 【毒蛇山荘だより】 やっと毒蛇山荘に到着。昨日は、兄の三周忌を終えて暗くなってから帰宅。なんと電気がつかない。手探りで、室内の電気メーターを点検してみるが、無理。初めての経験。仕方なく、暗闇の中で、焼酎をガブ飲み。そのまま…

閑話休題。「 青春18キップの旅( 2)」昨夜は博多駅前の某ホテルで一泊。すっかり元気回復。今日は早朝5:00に出発。久留米駅下車。久留米から日田や大分へ向かう久大線に初めて乗車。九州山脈の奥地、日田を経て大分へ向かいます。その後は豊肥線で熊本へ。八代から肥薩線で人吉を経て国分へ。そして終着駅=鹿児島中央駅へ向かう予定。何処まで行けるか?気の向くまま、風の吹くまま。アテのない「旅ガラス」でござんす?==

・・・・・・・・p ============= ==== 閑話休題。「 青春18キップの旅(2 ) 」 ============= ====■昨夜は博多駅前の某格安ホテルで一泊。すっかり元気回復。今日は早朝5:00に出発。久留米駅下車。久留米から日田や大分へ…

■大久保利通はスターリンだったのか? (山崎行太郎『南洲伝断片的草稿より) ■ 大久保利通は「東洋のビスマルク」とか「日本のビスマルク」だとかいうのが歴史学者たちの間では定説のようだが 、私は違うと思う。大久保利通は「スターリン」だったというのが、より正確であり、より真実を表現した言葉だと思う。ロシア革命におけるスターリンは、レーニンやモロトフ、トロッキーなどの影に隠れた三流の人物だった。しかし、政治家によくありがちだが、権謀術数にた

・・・・・・・・ ============= ==== 大久保利通はスターリンだったのか? (山崎行太郎『南洲伝断片的草稿より) ============= ====大久保利通は「東洋のビスマルク」とか「日本のビスマルク」だとかいうのが歴史学者たち…

今日は、正午に東京駅を出発。青春18キップでの鈍行乗り継ぎで、鹿児島中央駅を目指します。今、静岡県清水を過ぎました。浜松行きの鈍行列車に乗っています。気の向くまま、風の吹くまま、足の向くまま、気楽な「旅ガラス」。最近は、帰郷の折は、年も年だから、というわけで、料金も新幹線の3分の1ぐらいだし、飛行機を使っていたのだが、早く着きすぎて、ぜんぜん面白くない。本も読めないし…景色も見れない。というわけで、原点に帰ることにしました。青春18キップの旅を始めた頃は、深夜特急「 ながら」を使っていましたが、夜の電車

・・・・・・・・ 今日は、正午に東京駅を出発。青春18キップでの鈍行乗り継ぎで、鹿児島中央駅を目指します。今、静岡県清水を過ぎました。浜松行きの鈍行列車に乗っています。気の向くまま、風の吹くまま、足の向くまま、気楽な「旅ガラス」。最近は、帰郷…

福沢諭吉西郷隆盛論『丁丑公論 』全文

・・・・・・・・ 〓〓〓〓〓〓以下引用〓〓〓〓〓p 《 明治/十年 丁丑公論 福澤諭吉 (『明治十年丁丑公論、瘠我慢之説』 時事新報社 1901.5.2) ※ 句読点・清濁は原文の儘。【 】は頭書。〔 〕は原文割註。 序(石河幹明) 緒言 (本文) [TOP] 序 丁丑公…

私が一番関心を持つのは、西郷が、征韓論騒動の余波で、征韓論が受け入れられないと見るや、さっさと下野し、鹿児島へ帰郷した時、公職を投げ打って、西郷の後を追った薩摩藩の同志たちである。桐野利秋、村田新八、篠原国幹・・・やその他の多くの近衛兵を主軸とする薩摩藩士たちの決断力である。彼等に迷いはなxかったのだろうか。中でも陸軍少将だった桐野利秋の即断即決の行動は、際立っている。桐野利秋は、元々、西郷とはそれほど親しい間柄ではなかった。西郷や大久保利通等は市内加治屋町の城下士だった。しかし、その加治屋町出身の仲間

・・・・・・・・ ============= ==== 桐野利秋関係の文献や史料を読む。(2) ( 山崎行太郎『南洲伝』断片的草稿より) ============= ====私が一番関心を持つのは、西郷が、征韓論騒動の余波で、征韓論が受け入れられない…

このチラシは、一昨年( 2017 )のものです。 ■今年も、台風シーズンの九月七日(土曜日 )に、岩田温先生を呼んで、「合同講演会」を予定しています。 ■テーマは、『 西南戦争とは何だったのか』です。 ■二次会、懇親会も予定しています。 ■日程は、九月七日( 土曜日 )。場所は、鹿児島中央駅前の「キヤンセビル7F」です。 ■学生は無料です。よろしくお願いします。 (山崎行太郎3019/3/17)

・・・・・・・・・ ■このチラシは、一昨年( 2017 )のものです。 ■今年も、台風シーズンの九月七日(土曜日 )に、岩田温先生を呼んで、「合同講演会」を予定しています。 ■テーマは、『 西南戦争とは何だったのか』です。 ■二次会、懇親会も予定しています。 …

■何故、『南洲伝』を書き始めたのか?■五月から桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(3) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ============= ==== あらためて確認するが、私が、『小説=南洲伝』を書こうと思いたったのは、江藤淳の『南洲残影』の影響である。私は、元々、西郷隆盛があまり好きではなかった。郷土自慢的西郷隆盛論や英雄伝説的西郷隆盛論が、嫌いであった。私が、文学や哲学をやるようになったのも、そういう郷土自慢や英雄伝説的な言説、つまり日常的、世俗的言説と訣別するためだった。さらに言う

・・・・・・・・・ ============= ==== 桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(3) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ============= ====あらためて確認するが、私が、『小説=南洲伝』を書こうと思いたったのは、江藤淳の…

南浦和駅前の氷川神社で。「雉(キジ )の氷川神社」で有名らしい。今は、子供たちの間では、「 どんぐり山 」として知られている。もうすぐ桜が咲きそうです。今日は天気が良かったので、散歩三昧。「辻児童公園」で日光浴をしてから「大谷場氷川神社」へ。この氷川神社は、駅前だが、小高い丘の上にあるので、人

・・・・・・・・・ 南浦和駅前の氷川神社で。「雉(キジ )の氷川神社」で有名らしい。今は、子供たちの間では、「 どんぐり山 」として知られている。もうすぐ桜が咲きそうです。今日は天気が良かったので、散歩三昧。「辻児童公園」で日光浴をしてから「大…

■小林秀雄とベルグソンとマルクス。 ー『 感想(ベルグソン論 )』を読む。■ 理論的思考や体系的思考は、理路整然としていて、優れた思考のように見える。逆に、理論や体系を批判し、自由に思考を展開しようとすると、未熟な、いい加減な思考のように見える。マルクス主義という理論的思考や体系的思考を、激しく批判する小林秀雄が、文壇や論壇への登場してきた時は、まさしく、そう見えただろう。当時も今も、小林秀雄を歯牙にもかけないという人は少なくない

・・・・・・・・・ ============= ==== 小林秀雄とベルグソンとマルクス。 ー『 感想(ベルグソン論 )』を読む。 ============= ====理論的思考や体系的思考は、理路整然としていて、優れた思考のように見える。逆に、理…

■桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(2) ■( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ■桐野利秋の『桐陰仙譚』を続ける。当時の日本を取り囲む国際情勢について、桐野は、まともな議論を展開している。当時、桐野は、陸軍少将だった。だから、当然、軍事力や武力をちらつかせてはいる。しかし、桐野の「征韓論 」( 正確には「遣韓論」)は、軍事力を全面に出した「 軍事侵略 」論ではない。「革命の輸出」論でもない。つまり、朝鮮半島への武力征伐論を主張してはいない。 《 世界の

・・・・・・・・・ ============= ==== 桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(2) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ============= ====■桐野利秋の『桐陰仙譚』を続ける。当時の日本を取り囲む国際情勢について、桐野…

●桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。( 1 ) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ●西郷も桐野利秋も、手紙類以外に、著作や日記などの書き物を残していない。書や詩文が残っているだけである。特に西郷は、写真さえ残していない。西郷は、意識して残さなかったのかもしれない。古い話になるが、イエスや孔子なども残していない。言行録が残っているだけである。だから、西郷や桐野利秋に関する情報は、本人のものではなく 、周辺の人物たちの証言や記録でし

・・・・・・・・・============= ==== 桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。( 1 ) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ============= ==== 西郷も桐野利秋も、手紙類以外に、著作や日記などの書き物を残していない。書や…

●「桐野利秋」抜きに西郷は語れない(5)。 ( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より ) ●私は 、勝海舟や坂本龍馬のような「おしゃべり 」が嫌いである。日記や証言など、歴史的史料や記録類を、大量に残している歴史的人物を、私は信用しない。「言い訳」や「捏造」の匂いが漂うからである。しかし、歴史学者や歴史小説家は、そういうものが頼りになるから、信用してしまう。大久保利通の日記や証言にも、そういう匂いがする。西郷や桐野利秋には、そういう匂いがしない。後世の歴史学者や漫談作家が、悪口を書こうと、何を書こうと、

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メールマガジン『 山崎行太郎の毒蛇通信』を配信しました。今号のテーマは、【情況への極私的な発言(米朝首脳会談と日韓関係 )】と【桐野利秋と西郷南洲(『南洲伝』草稿 )⠀】。 メールマガジン『山崎行太郎の毒蛇通信 』の読者登録はコチラ。 http://www.mag2.com/m/0001151310.html http://www.mag2.com/m/0001151310.html

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●「桐野利秋」抜きに西郷は語れない(4)。 ( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より ) ● 西郷の戦争の仕方には、大きな特徴があった。それは、最後まで追い詰めないことだった。大部隊を率いて 、敵を取り囲み、追い詰めるが、敵が白旗をあげると最後は話し合いに持ち込む。大部隊を投入し、江戸の街を火の海する寸前まで追い詰めながら、山岡鉄舟や勝海舟等との「 話し合い 」に応じ、江戸城無血開城へ舵を切ったり、庄内藩に「 寛大な処置 」をしたことなどは有名だが、そもそも、それが西郷の戦争だった。忠実な部下だった桐野利

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●「桐野利秋」抜きに西郷は語れない(3)。 ( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より ) ● 司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』は、桐野利秋の故郷・吉野村の描写から始まる。そして、「 君たちはえたいが知れない」と。「その吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家のあとを訪ねたとき、正直なところそう思った 」と。その次のページには、パリの街を闊歩する川路利良( かわじ・としなが )。野蛮と文明。 鹿児島の片田舎の農村地帯とパリの市街

・・・・・・・・・============= ==== 「桐野利秋」抜きに西郷は語れない(3)。 ( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より ) ============= ====司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』は、桐野利秋の故郷・吉野村の描写から始まる。そし…

「桐野利秋」抜きに西郷は語れない。(2)( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より) 桐野利秋については、根拠の無い「 風評」や「誹謗中傷」が少なくない。「 人斬り半次郎」とか「 無学文盲」という類の「 風評」である。しかし、これらの風評に、史料的根拠はとぼしい。

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●「桐野利秋」抜きに西郷は語れない。(1 )( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より)● 西郷の周辺にいて、世間の「悪評 」を一身に背負いながらも、西郷を最後まで守り続けていた男がいる。鹿児島県の農村地帯「吉野村 」(現在は鹿児島市内吉野 )の外城士( 郷士 )の家に生まれ、教育もまともに受けていないと言われているが、剣の腕は抜群で、幕末の動乱期には「 人斬り半次郎 」と呼ばれ、恐れられていたらしい男 、それが桐野利秋である。鹿児島

・・・・・・・・ ============= ==== 「桐野利秋」抜きに西郷は語れない。(1 )( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より) ============= ==== 西郷の周辺にいて、世間の「悪評 」を一身に背負いながらも、西郷を最後まで守り…

■島津斉興と島津斉彬と島津久光■幕末薩摩藩の「 父と子 」の物語(4 )。江藤淳と司馬遼太郎。 西郷や大久保が登場する以前の薩摩藩の歴史は、あるいは島津家の歴史は、切腹と介錯の歴史であった。つまり「 死」が隣合わせの歴史であった。常在戦場という言葉があるが、常に切腹するか介錯されるかを自覚しないでは、一日も生きていられないのが薩摩武士たちだった。「 武士道とは死ぬことと見つけたり 」という『 葉隠』の武士道が実践されていた。少年=西郷の歴史も、お由羅騒動で、切腹を命じられた遠縁の赤松靱負の切腹事件から始

・・・・・・・・・ ■島津斉興と島津斉彬と島津久光■幕末薩摩藩の「 父と子 」の物語(4 )。江藤淳と司馬遼太郎。西郷や大久保が登場する以前の薩摩藩の歴史は、あるいは島津家の歴史は、切腹と介錯の歴史であった。つまり「 死」が隣合わせの歴史であった。…

■島津斉興と島津斉彬と島津久光■幕末薩摩藩の「 父と子 」の物語(3)。島津重豪( 父)と島津斉宣( 子 )の権力闘争。 島津重豪( しげひで )が 、学問好きの名君だったことは前回も書いたが、そういう名君に限って、経済に無関心で、多額の借金を抱えても無頓着だ。しかも独裁的で、権力に固執する傾向が強い。いずれにしろ、造士館も天文館( 明時館 )も、重豪の作ったものだ。その他、島津重豪が推進した開化政策はかずしれない。中国や西欧の先進文化を取り入れた壮大な開花政策だった。しかも、重豪の娘=茂姫が、徳川幕

・・・・・・・・・ ■島津斉興と島津斉彬と島津久光■幕末薩摩藩の「 父と子 」の物語(3)。島津重豪( 父)と島津斉宣( 子 )の権力闘争。島津重豪( しげひで )が 、学問好きの名君だったことは前回も書いたが、そういう名君に限って、経済に無関心で、多額の借…

●『 メールマガジン=山崎行太郎の毒蛇通信 』を配信しました。 ●【情況への極私的な発言】と【山崎行太郎『小説・南洲伝 』断片的草稿メモ】を掲載しています。 ●『 メールマガジン=山崎行太郎の毒蛇通信 』の登録はコチラ。( ⬇ ) http://www.mag2.com/m/0001151310.html http://www.mag2.com/m/0001151310.html

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■島津斉興と島津斉彬と島津久光(2)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■ 私は、これまで、薩摩藩の歴史 、つまり薩摩藩主一族、島津家の歴史に、さほどの関心も興味も持ったことがなかった。島津氏は 鎌倉時代、鹿児島へやって来て、それ以来、鹿児島を中心に、南九州一帯を支配し続けて来たというぐらいの知識しかなかった。明治維新も、あまり島津家とは関係ないと思っていた。しかし、詳しく調べていくうちに、幕末の歴史の表舞台で、西郷や大久保が大活躍出来た背景には、薩摩藩や、代々の藩主である島津家の歴史や興亡が深く関

・・・・・・■島津斉興と島津斉彬と島津久光(2)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■私は、これまで、薩摩藩の歴史 、つまり薩摩藩主一族、島津家の歴史に、さほどの関心も興味も持ったことがなかった。島津氏は 鎌倉時代、鹿児島へやって来て、それ以来、…

■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■ 西郷の入水自殺事件や、奄美大島への島流し事件等には、よく理解できない謎の部分が少なくない。その謎の多くは島津久光に関わっている。西郷と島津久光は、お互いに憎みあっており、敵対関係にあった、と。しかし、資料や文献をよく調べていくと、必ずしも、そうではないのではないのか、と、私は思うようになってきた。そもそも、島津斉彬と島津久光の兄弟の仲が悪かったというのは間違いである。周辺はともかくとして、本人同士は、憎みあってもいなければ、敵

・・・・・・ ■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■西郷の入水自殺事件や、奄美大島への島流し事件等には、よく理解できない謎の部分が少なくない。その謎の多くは島津久光に関わっている。西郷と島津久光は、お互いに憎み…

■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■ 西郷の入水自殺事件や、奄美大島への島流し事件等には、よく理解できない謎の部分が少なくない。その謎の多くは島津久光に関わっている。西郷と島津久光は、お互いに憎みあっており、敵対関係にあった、と。しかし、資料や文献をよく調べていくと、必ずしも、そうではないのではないのか、と、私は思うようになってきた。そもそも、島津斉彬と島津久光の兄弟の仲が悪かったというのは間違いである。周辺はともかくとして、本人同士は、憎みあってもいなければ、敵

・・・・・・ ■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■西郷の入水自殺事件や、奄美大島への島流し事件等には、よく理解できない謎の部分が少なくない。その謎の多くは島津久光に関わっている。西郷と島津久光は、お互いに憎み…

■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語

・・・・・・■島津斉興と島津斉彬と島津久光(1)。ー幕末薩摩藩の「 父と子」の物語。■西郷の入水自殺事件や、奄美大島への島流し事件等には、よく理解できない謎の部分が少なくない。その謎の多くは島津久光に関わっている。西郷と島津久光は、お互いに憎み…

■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 5) 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 西郷と月照を入水自殺へ追いこんだのは、島津久光ではなかった。薩摩藩の島津斉彬時代の家老で、島津斉彬亡き後も、政治的実権を握っていた島津豊後一派の島津久宝( ひさたか )であった。島津斉彬は、藩主継承後も、お由羅騒動以来の内紛の再発を恐れて、父=島津斉興の腹心・島津豊後一派( 島津久宝)を続投させていた。島津斉彬が急死すると、島津斉興が力を盛り返し、筆頭家老だった島津斉彬の腹心=島津久徴(ひさなが )を引きずり下ろした

・・・・・・ ■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 5) 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】西郷と月照を入水自殺へ追いこんだのは、島津久光ではなかった。薩摩藩の島津斉彬時代の家老で、島津斉彬亡き後も、政治的実権を握っていた島津豊後一派の島津久…

島津久光と小松帯刀と大久保利通(4 )。 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 西郷は二回島流しにあったが、二回、呼び戻しの召還状を受け取っている。二回とも召還状は、島津久光が主導して作っている。島津久光が、西郷を、心底嫌っていたわけではない。二人が憎みあっていたという話は、かなり微妙な話である。島津斉彬亡き後の薩摩藩では、次期藩主が19歳と若かったことや、先々代の藩主・島津斉興がまだ健在であったこともあって、権力基盤は不安定で、何回も大胆な人事移動による権力交替が繰り返されている。その度に、守旧派

・・・・・・ 島津久光と小松帯刀と大久保利通(4 )。 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】西郷は二回島流しにあったが、二回、呼び戻しの召還状を受け取っている。二回とも召還状は、島津久光が主導して作っている。島津久光が、西郷を、心底嫌っていた…

■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 3 )。 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 島津久光は、異母兄の藩主・島津斉彬とは仲が悪かった訳ではない。たしかに、二人の父親にあたる島津斉興と島津斉彬とは、険悪な関係にあった。島津斉興は、長男である島津斉彬に 、なかなか藩主の地位を譲ろうとはしなかった。そのために、二人の間にはトラブルが絶えなかった。島津斉彬が、無理矢理、強引に、藩主の地位を奪い取り、父親を隠居に追いこんだのも、薩摩藩の密貿易を幕府に密告し、調所広郷( ずしょ・ひろさと)を服毒自殺に追い込

・・・・・・■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 3 )。 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】島津久光は、異母兄の藩主・島津斉彬とは仲が悪かった訳ではない。たしかに、二人の父親にあたる島津斉興と島津斉彬とは、険悪な関係にあった。島津斉興は、長…

■ 小林秀雄とベルグソンとマルクス。 ■ 小林秀雄が、「マルクス主義」ではなく「マルクス」に注目するようになったのは、誰の影響だろうか。おそらくベルグソンの影響だろうと言いたいところだが、私はそうではないと思う。たしかに小林秀雄は、学生時代、ベルグソンを熟読したと言っている。しかし、それは、ベルグソンから、何かを学んだということとは少し違う。小林秀雄は、ベルグソンを読むことによって、自己の思想を強化し、再確認( 理論武装)したとしても、それは、

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【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 ■島津久光と小松帯刀(こまつ・たてわき )と大久保利通(2)。 西郷の流刑時代、薩摩藩はどうなっていたのか。薩摩藩は、西郷不在の中でも、それなりに 、着々と、明治維新に向けて、中央政界でも、積極的に政治工作をしていた。なにもかも西郷がやったというのは、嘘である。島津斉彬亡き後の薩摩藩の藩主は島津忠義が継いだが、忠義は19歳とまだ若く、実質的には、忠義の実父に当たる島津久光が実権を握り、「島津久光政権 」を確立し、補佐役として西郷よりも若い薩摩藩士の小松帯刀(

・・・・・・【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 ■島津久光と小松帯刀(こまつ・たてわき )と大久保利通(2)。西郷の流刑時代、薩摩藩はどうなっていたのか。薩摩藩は、西郷不在の中でも、それなりに 、着々と、明治維新に向けて、中央政界でも、積極的…