山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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ヘーゲルと私。

ヘーゲルの『精神現象学』は、何度も読もうとしたが、その度に、いつも途中で挫折している。今回は、最後まで、読めそうな気がする。「月刊日本」に連載している『マルクスエンゲルス』で、どうしてもヘーゲルが読みたくなったからだ。ヘーゲルを抜きにして、マルクスともエンゲルスも語れない。


マルクス主義の観点から見ると、ヘーゲルは、乗り越えられるべき前世代の遺物にすぎない。しかし、くりかえして言うが、ヘーゲルなしにマルクスエンゲルスも、そしてマルクス主義もありえない。マルクス主義哲学と思われている「弁証法」などは、もともとはヘーゲルのものである。要するに、マルクスエンゲルスも、共に 「青年ヘーゲル派」として哲学的思索をスタートさせている。


私が、最初にヘーゲルという名前を強く意識したのは、学生時代に読んだ吉本隆明の『丸山眞男論』の中の一文であった。吉本隆明は「丸山眞男批判」の一環として、ヘーゲルの歴史哲学を例に出して、次のように批判している。

ヘーゲルには歴史がは血まみれた罪悪史のヴィジョンとしてあらわれ、戦慄させられる。それを逃れる道があるのか。これらの血まみれた罪悪の歴史を、そのまま何ものかを貫徹し、何ものか絶対的なものが展開されるための手段とかんがえればよいではないか。/ヘーゲルの世界理性のうしろには、は血まみれた歴史のヴィジョンがあるといえなくはあるまい。歴史を逆立ちさせるためにも、こういうヴィジョンは必要だったのだ。(『丸山眞男論』)


吉本隆明は、丸山眞男を批判して、「ヘーゲルの歴史は血まみれた罪悪史のビジョンのうえになりったている」と書いてあった。「血まみれた罪悪史のビジョン」とは「血の弁証法」のことだろう。丸山眞男の歴史哲学には、この「血のビジョン」、つまり、「血の弁証法」がないということだ。


(続く)

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