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山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『ネット右翼亡国論』『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

デモクリトスとエピクロス

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デモクリトスの方法とエピクロスの方法の差異

 デモクリトスエピクロスの自然哲学の差異について論じる前に、マルクスは、二人の哲学者に対する哲学史的な評価がどういうものだったかについてかなり詳細に書いている。ギリシャ時代から近代に至るまで、デモクリトスエピクロスに対する評価は、デモクリトスを賞賛し、エピクロスを批判するという点でほぼ共通している、とマルクスは言う。マルクスは「序」で、書いている。


《専門家であれば、この論文の対象となる領域で利用できる参考文献はほとんどないことがおわかりいただけるだろう。キケロプルタルコスが喋ってきたことが、今日までそのまま口移しのように語られてきたのである。キリスト教の教父たちは、エピクロスをまったく無視してきたし、理性の欠如が支配的だった中世のすべての時期を通じて、エピクロスはいわば<破門>されていたのだった。》(『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』)

 要するに、エピクロスは、哲学史的にはほとんど語るに値しない三流の哲学者として無視されてきたのである。マルクスは、そういう哲学的常識に激しく抗議する。マルクスの抗議・批判の目的は、「哲学を宗教の裁きの場に引きだそうとするプルタルコスのやり方そのもの」である。つまり、宗教の奴隷と化している哲学の復権が目的である。
 さて、ここでもう一度、エピクロスに対する無視、黙殺の歴史を、マルクス学位論文にそって見てみよう。たとえば、ストア派のポセイドニオス、ニコラオス、ソティオン等は、「エピクロスデモクリトスの原子論を、あたかも自分の理論であるかのように吹聴していたと非難している。」とマルクスは書く。
あるいはキケロは、次のように書いているとマルクスは言う。「エピクロスは自然学を自慢しているが、この分野ではまったく素人である。自然学の大部分はデモクリトスのものだ。エピクロスが逸脱したり、改善しようとしていたところでは、結局はデモクリトスの自然学を改悪し、だいなしにしてしまうのだ。」と。
 マルクスは、プルタルコスの『コロテス論駁』を引用して、「『エピクロスはすべてギリシャ哲学のうちから、誤っているものをとりいれ、真理を理解しなかった。』と結論している」と書いている。
 さらに近代においては、ライプニッツの「エピクロス批判」の言葉を引用して、マルクスは、次のように書いている。


《近代の哲学者たちにも、エピクロスの自然哲学はデモクリトスの自然哲学をそのまま剽窃したものとみなす傾向があることは周知のことだろう。こうした全般的な見方を代表するものとして、ここではライプニッツの言葉をあげておこう。「この偉大な人物(デモクリトス)について知られているのは、エピクロスがうけついだものだけだ。そしてエピクロスにつねに欠けていたのは、もっとも優れたものをうけつぐ能力だった。」》(同上)


  要するに、古代から、近代にいたるまで、デモクリトスを賞賛する人はいても、エピクロスを賞賛する人はほぼ絶無である。エピクロスの自然学は、デモクリトスの模倣であり、剽窃であるという点で、ほぼ意見が一致しているというわけだ。
 しかし、マルクスは、その哲学史的常識、あるいは哲学史的偏見に反論・反駁するために、学位論文を書いている。その主たる目的は、宗教や信仰を重視する哲学史的常識に抗議し、「自己意識の哲学」、つまり「自分の頭で考える哲学」を復権することである、と言っていい。
 マルクスは、エピクロスの自然哲学は、デモクリトスの自然哲学とは異なる、と主張する。そして、「自己意識の哲学」という観点から、エピクロスを擁護する。宗教より哲学を重視する。繰り返すが、そこに、マルクス学位論文デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』執筆の目的がある。

 
いずれにしろ、デモクリトスエピクロスを比較しようとするのは、その比較を通して、哲学的思考、つまりマルクス的思考の本質を宣言するためである。マルクスは、この学位論文の段階で、すでに将来のマルクス的思考の本質をつかみ、それを定式化しようとしているということができる。
 しかし、従来のマルクス研究やマルクス主義研究においては、この学位論文に対する関心度は低い。おそらく、思考そのものより、思考の結果としての理論や体系に関心が集中していたからだろう。
つまり、唯物論唯物史観の誕生の歴史から見れば、マルクス学位論文は、なんの価値もない論文だということになる。しかし、「唯物論」とか「唯物史観」とかいうイデオロギーに目を曇らされない素朴な目で見れば、この学位論文に対する関心度は変わってくるだろう。むしろ、ここにマルクス的思考の原点があると見ることもできる。
 

さて、エピクロス再評価の前に、マルクスが強調するのはデモクリトスエピクロスの差異である。では、何処が違うのか。たとえば、マルクスは、哲学の方法に関して、デモクリトスエピクロスの差異について書いている。


デモクリトスはエジプトの僧侶、ペルシアの星占い者、インドの裸の哲学者たちからも学ぼうとするが、エピクロスは教師をもたず、独学者であることを誇りにしている。エピクロスは、いかなる助けもなしに、真理を獲得しようとする人がいるが、自分もこうした人の一人として、道を切り拓いたと言っていたとセネカは語っている。エピクロスがもっとも賞賛するのは、こうした独学者であり、独りで学ばないは、二流の頭脳の人だと語っていた。》(同上)

デモクリトスエピクロスの差異は、学問や哲学の方法にある、とマルクスは分析する。二人の方法はまったく違うのだ。では、何処が、どう違うのか。
 マルクスによれば、デモクリトスの方法は、経験主義的、実証的方法である。《デモクリトスは世界のあらゆる地域を彷徨する。》《そして該博な人物のつねとして、デモクリトスはさまざまな場所に赴き、知識を収集し、外側から観察する》(マルクス)という。この言葉が示すように、経験的な観察を重視する方法がデモクリトスの方法である。

《だからデモクリトスは経験的な観察へと赴く。哲学には満足できないので、実証的な知識に頼ろうとするのである。キケロデモクリトスを「博学の士」と呼んでいる文章ぱすでに引用したが、デモクリトスは自然学、倫理学、数学、そして多様な学問分野に精通しており、すべての技芸に長けている。》(同上)

現代の言葉で言えば、デモクリトスの方法は、観察や実証性を重視する「社会科学的」な方法であり、それに対して、エピクロスの方法は、「独学者」という言葉に象徴されるように、内観的な「哲学的」な思考方法である。
 古代ギリシャの時代から近代にいたるまでに形成されてきたデモクリトス賛美とエピクロス否定という哲学史的偏見は、宗教的思考の重視、哲学的思考の軽視という時代背景の元で形成された偏見にすぎない。
 マルクス主義の常識から言えば、明らかにデモクリトスの方法こそ、マルクスの推奨する方法だと思われる。しかし、マルクスは、デモクリトスの方法よりもエピクロスの方法を重視し、評価する。少なくとも、この学位論文では、マルクスは、デモクリトス的な「社会科学的」な方法よりも、「哲学的」な思考方法を重視している。「哲学から経済学へ」というマルクス主義的常識とは矛盾しているように見える。
 しかし、「宗教から哲学へ」という尺度で見ると矛盾しているわけではない。マルクスは、まず「宗教から哲学へ」という問題意識の元に、学位論文を書いている。言い換えれば、マルクスには、初期から晩年まで、「社会科学的」な方法よりも「哲学」的な思考方法を重視しようとする問題意識がある。エンゲルスの方法とマルクスの方法との差異と言い換えてもいい。明らかに、デモクリトスの方法は、エンゲルス的であり、エピクロスの方法はマルクス的である。マルクスは、「哲学から経済学へ」という思考革命を通過しているにも関わらず、つまり観察や経験、あるいは実証性を重んじるにもかかわらず、エンゲルスとは異なり、あくまでもエピクロス的、哲学的思考を重視する。マルクスは、エンゲルスの実証的なイギリス経済研究を高く評価するが、マルクス自身はそれに満足しない。マルクスは、哲学的思考を復権させようとする。それがマルクスエピクロス論である。
 エピクロスの方法については、次のように書いている。

デモクリトスは哲学に満足できず、経験的な知の世界に没頭した。これとは反対にエピクロスは、実証的な学を軽蔑する。実証的な学は、知識をほんとうに完全なものにするには、まったく役に立たないからだという。》(同上)


マルクスは、エンゲルスの実証的な経済学研究に満足せずに、哲学的経済学研究を目指す。それが『資本論』である。エンゲルスに『資本論』は書けない。エンゲルスには、マルクスにあった哲学的思考が欠如していたからだ。つまり、マルクスは、学位論文で、デモクリトス的な実証主義や経験主義を批判し、エピクロス的な哲学的思考を擁護しているのだ。




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