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山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『ネット右翼亡国論』『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

島津氏の琉球侵攻(1609年)(資料)

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島津氏の琉球侵攻(1609年)
===========資料== =========

 1609(慶長14)年4月1日、琉球国王の居城である首里城が島津の薩摩軍に占拠されました。



(島津氏の琉球侵攻)
 1609(慶長14)年3月4日、薩摩藩主の島津家久(しまづ・いえひさ)から琉球征伐の命を受けた総大将の樺山久高(かばやま・ひさたか)は、約3000の兵を乗せた70~80隻余の軍船で薩摩の山川港から琉球へ向けて出港しました。
 鉄砲隊を主軸とした 戦慣れした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島の島々をつぎつぎと攻略し、3月25日には沖縄島北部の運天港に上陸しました。

【薩摩軍の侵攻経路図】

薩摩軍の侵攻経路図

今帰仁城跡から東シナ海の風景画像
 今帰仁城跡の御内原(うーちばる)から見た北側の風景 晴れた日には与論島が見えることもあるそうです。

 3月25日、運天港に到着した薩摩軍は(赤矢印の付近)3月27日には今帰仁城を攻め落としました。

 さらに薩摩軍は読谷山(ゆんたんざ)(読谷村)を攻略し、海上と陸上の両方から首里那覇に進撃し、4月1日には王都の中心である首里城に達しました。琉球軍も抵抗しましたが、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力を持つ薩摩軍を相手になす術がなく降伏するしかありませんでした。


(島津氏が琉球へ侵攻した動機)
 資料・文献では島津氏の琉球侵攻の動機として以下のことを挙げています。

1.関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に加担した背景から、徳川幕府の信頼を得て自藩の立場を有利にするため。
2.戦国時代、豊臣秀吉との戦いや朝鮮出兵など度重なる戦乱で苦しい自藩の財政を立て直すため。
3.琉球を通じて明(中国)との貿易を行うため。
4.自藩の領地を拡張するため。
5.分散していた島津氏の権力を藩主である島津家久のもとにまとめるため。
6.因幡(いなば)(鳥取県)の亀井茲矩(かめい・これのり)が豊臣秀吉の許可を得て1590(天正18)年に3500人の兵で琉球征伐を企てたが、これを島津が中止させたことへの恩を忘れていること、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に薩摩が肩代わりした負担金を返済しなかったこと、薩摩が琉球に対し、創立当初の徳川幕府に贈り物を献上するようにすすめたが、それに応じなかったこと、琉球船漂着に対し、乗員を保護し薩摩を通じて帰国させたが礼を欠いた、などの非礼に対する報復として。

 理由6に関係する資料があります。 当館が所蔵する最も古い資料です。
島津義久から琉球国王尚寧への書状
島津義久から琉球国王尚寧への書状」1590年8月21日 閲覧用資料コード:0000007658
 1590(天正18)年8月21日に島津義久から、琉球国王尚寧へ送られた書状。内容は、琉球国王に対し豊臣秀吉の関東平定を受けて、上洛してお祝いの言葉を述べ、贈り物を献上するよう命じています。

(薩摩の琉球支配)
 4月5日、薩摩軍は首里城を接収した後、5月15日に国王の尚寧以下重職にあった者達を薩摩の島津家久のもとに連行しました。翌年の1610(慶長15)年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見(えっけん)し、以来、将軍が代わる毎にこれを祝する慶賀使(けいがし)を、琉球国王の即位には感謝のための謝恩使(しゃおんし)を、それぞれに使節一行を江戸に派遣することがならわしとなりました。その際の服装は、琉球風・中国風のものと決められました。琉球が異国であることを強調することで、それをともなう薩摩藩と幕府の権威を高める意図がありました。
琉球人行列絵巻の図
琉球人行列絵巻巻物(部分)」(作者年代不明) 閲覧用資料コード:T00012457B

 島津家久徳川家康から琉球の支配権を与えられるとともに、奄美諸島(大島・徳之島・喜界島・沖永良部島与論島の五島)は薩摩の直轄領(ちょっかつりょう)になりました。
 これ以後、260年余に亘って、琉球は薩摩の支配下で国家としての存続が認められました。 

 1611(慶長16)年、島津家久は尚寧に領有すべき知行目録(ちぎょうもくろく)を与えて、琉球が守るべき事柄を記した「掟十五条」(おきてじゅうごじょう)を言い渡し、琉球への帰国を許しました。
 同年9月には薩摩藩主家久宛の起請文(きしょうもん)(誓約書)を書かされました。島津氏は薩摩支配の全期間にわたり琉球国王以下、摂政(せっせい)・三司官(さんしかん)の個々人からそれぞれ起請文をとり、薩摩支配に服する旨の誓約を行わせました。

 薩摩の侵攻により、独立していた琉球国は日本の幕藩体制(ばくはんたいせい)の中に特異な形で組み込まれていきました。

【関連記事】
・当館の閲覧室で東京大学史料編纂所所蔵島津家文書」の琉球関係資料の複製本を閲覧することができます。
沖縄県公文書館だより『ARCHIVES』に「島津家文書」について紹介しています。
・オンデマンド講演会 深沢秋人「中国・薩摩は琉球をどうみたか」

【参考引用文献】
・『沖縄県史1 通史』(1989年復刻 沖縄県教育委員会) 資料コード:G00002852B
・『今帰仁村史』(1975年 今帰仁村史編纂委員会) 資料コード:G00000641B
・『琉球王国の歴史』(1999年 佐久田繁)
・『概説 沖縄の歴史と文化』(2000年 沖縄県教育委員会) 資料コード:0000018553
・『ジュニア版 琉球・沖縄史』(2008年 沖縄歴史教育研究会代表 新城俊昭)
・『日本復帰30周年記念特別展 資料に見る沖縄の歴史』(2002年 沖縄県)資料コード:0000063810
今帰仁村ホームページ「世界遺産


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