哲学者=山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

マルクスとエンゲルスーー「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の位置

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■「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の位置

マルクスの『デモクリトスの自然哲学とエピクロの自然哲学の差異』について、もう少し続ける。
 これからは、マルクス学位論文「本文」にそって話を進める。現在、われわれが読むことのできるマルクスの「学位論文」と言われているものは、イエーナ大学に提出した学位論文そのものではない。原文は紛失しており、われわれが読むことのできる「学位論文」は、マルクスが印刷用に残した原稿、学位論文作成のためにマルクスが残した七冊のノート、あるいはマルクスが補正のために書き加えた文章などからなっている。もちろん、原文そのものではないとしても、マルクス学位論文で、何を書こうとしていたかは、充分に読みとることができる。
 マルクスは、この学位論文の目的について、こう書いている。  
《この論文は、わたしのもっと大きな著作の前書きのようなものと考えていただきたい。この大きな著作においてわたしはエピクロス派、ストア派、懐疑派とつづく哲学大系が、ギリシャ哲学の全体の思弁のうちでどのような位置を占めているかを詳細に説明する計画を立てている。》(『デモクリトスの自然哲学とエピクロの自然哲学の差異』)

 マルクスの言う「もっと大きな著作」は、書かれなかったが、その全貌は、この学位論文から、うかがい知ることはできる。
 マルクスは、学位論文の執筆意図を、ギリシャ哲学における「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の再評価とその位置づけだと言っている。「エピクロス派、ストア派、懐疑派」は、ギリシャ哲学の歴史のなかでは、ほぼ末期に属し、あまり重視されない哲学である。
 マルクスも、「エピクロス派、ストア派、懐疑派は、それまでの力強いギリシャ哲学とはかかわりのないぶざまな<おまけ>のようにみられている。」と言っている。つまり、アリストテレスを頂点とするギリシャ哲学のなかで、その衰退、凋落、崩壊の段階で現れた哲学と見られている、というのである。
 しかし、マルクスは、むしろ「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の方に目を向ける。おそらく、ここにマルクスマルクスたる所以がある。

《優れた悲劇には、気の抜けた結末などあってはならない。しかしギリシャ哲学には、気の抜けた結末が訪れたかのようである。ギリシャ史においてはマケドニアアレクサンドロスが決定的な地位を占めているが、ギリシャ哲学においてはアリストテレスがこれに匹敵する立場にあり、ギリシャ哲学の客観的な歴史はアリストテレスをもって終焉したかのようである。》(同上)

 ギリシャ哲学は、ソクラテスプラトンアリストテレスに象徴されるように、アテネの哲学者たちを中心に語られるのが常識である。もちろん、マルクスもそれを認めていないわけではない。しかし、マルクスは、敢えてそのあまり重視されていない「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の哲学を再評価し、位置づけようとしている。

《じつはこれらの哲学大系は、真のギリシャ哲学史において要となる役割を果たすものなのである。これらの哲学がギリシャ人の生においてどのような位置を占めていたかは、畏友ケッペンの著作『フリードリヒ大王とその敵対者たち』に深い示唆がみられる。》(同上)


マルクスは、「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の哲学が「要」となると言っている。これは、どういうことだろうか。マルクスの考える「ギリシャ哲学史」は、常識的なそれと逆転している。マルクスが、「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の哲学を評価するのは、どういう理由からだろうか。マルクスは、何をもつて、「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の哲学を評価するのか。マルクスは、そこで「自己意識」という言葉を持ち出す。
 「自己意識」という観点からギリシャ哲学を読み直すというわけである。つまり「自己意識」という問題意識から見れば、ギリシャ哲学の評価は逆転するというわけである。

エピクロス派、ストア派、懐疑派において、自己意識のすべての契機が完全に表現されていること、これらの学派が自己意識のそれぞれの固有の契機になるのは、偶然だろうか。これらの体系を順に経由することで自己意識を完全に構成することができるのは、偶然なのだろうか。》(同上)

ここでマルクスが「自己意識」と呼んでいる物は、いったいなんだろうか。
私の考えでは、それは「思考」ということではなかろうかと思う。つまり、エピクロス派、ストア派、懐疑派においては、「自己意識」、つまりむ「考える」ということが、「体系」より大きな比重を占めているということではなかろうか。アリストテレスに象徴されるのは壮大な哲学体系である。言い換えれば、アリストテレスが何を考え、どういう思考過程を経て、その哲学大系を構築するに至ったかという側面が無視されている。つまり、体系が哲そのものの代名詞になっている。マルクスが、異論を唱えるのは、そこである。
 さらにマルクスは、こう書いている。

ギリシャ哲学の<内容>としては、アリストテレス以前の哲学の体系が重要であり、興味深いものだ。しかしギリシャ哲学の正確と主観的な<形式>という視点からみると、アリストテレス以後の体系であるエピクロス派、ストア派、懐疑派のグループ方が重要で、興味深いものにみえる。ただこれまでは、哲学を形而上学的に規定する傾向があったので、哲学の体系の精神的な担い手としての主観的な形式は、忘れ去られてきたのである。》(同上)

 意外に思われるかもしれないが、マルクスは、ここで、体系としての哲学を重視していない。マルクスは、「主観的な<形式>」と言っている。あるいは、「哲学の体系の精神的な担い手としての主観的な形式は、忘れ去られてきたのである。」と。マルクスとしては、体系より思考を重視するということだろうか。
 おそらく、この学位論文で、マルクスが主だとして取り上げたのは、この「哲学の体系の精神的な担い手としての主観的な形式」であろう。
 言うまでもなく、マルクスは、アリストテレスヘーゲルにたとえている。ヘーゲルを頂点に、ドイツ哲学は、ヘーゲル左派、ヘーゲル右派などに分裂、衰退していく。と同時に、群雄割拠の時代が始まっていた。マルクスは、その群雄割拠の時代を、アリストテレス以後の「エピクロス派、ストア派、懐疑派」の時代になぞらえていたと思われる。むろん、当時、青年ヘーゲル派の一員だったマルクスは、自分たちの哲学の可能性を、強く確信していた。その確信の根拠になっているのも、「自己意識」というキーワードであった。
 マルクスは、エピクロス派、ストア派、懐疑派の哲学は、一見、ギリシャ哲学の解体期の衰弱した哲学と思われているかもしれない
が、「自己意識」という観点から見ると、そうではないと言っているのだ。それは、ヘーゲル以後の青年ヘーゲル派、あるいはヘーゲル左派にも、体系としての哲学という点では、ヘーゲルに遙かに劣るが、自己意識という点では、むしろヘーゲルより豊饒であると言いたいのだと思われる。
 そこで、マルクスは、より具体的に、この「自己意識の哲学」を、デモクリトスエピクロスの「自然哲学」の比較から明らかにしようとしている。

《わたしはこの関係を考察するための実例として、エピクロスの自然哲学とデモクリトスの自然哲学の関係を取り上げることにした。たしかに自然哲学は、エピクロスデモクリトスの哲学の最適な接点ではないかもしれない。デモクリトスエピクロスの自然哲学は同じものであり、エピクロスの自然哲学は恣意的な思いつきで、デモクリトスの自然哲学を作り替えたものにすぎないという古くからの偏見があるからだ。それに個々の点については、微細な違いに分けいらざるをえなくなる。この偏見は哲学の歴史とともに古いものだし、二人の自然哲学の違いはわかりにくく、顕微鏡でも使わなければはっきりとはみえないようなものだ。》(同上)

 マルクス学位論文の題は『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』となっている。このことから、マルクスは、ギリシャ哲学の「自然哲学」に関心があったのだと思いがちである。つまり、「自然哲学=唯物論」に関心が向きがちである。むろん、「自然哲学=唯物論」が重要であることは言うまでもないが、しかし、マルクスの主要な関心は、自然哲学より自己意識の哲学にあったように見える。自然哲学は、自己意識の哲学を明らかにするための道具だったと言っていい。
 さて、マルクスは、デモクリトスの自然哲学とエピクロの自然哲学の差異は、「わかりにくく、顕微鏡でも使わなければはっきりとはみえないようなものだ」と言う。そこで、「微細な違い」という方向に分け入っていく必要がある、という。この「微細な違い」のポイントが、自己意識の哲学であることは言うまでもない。
 つまり、マルクスは、この自己意識の哲学という観点から、哲学史の常識に逆らって、デモクリトスを批判し、エピクロスを擁護していくのである。



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