哲学者=山崎行太郎のBlog『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

マルクスは、へーゲルの「弁証法」を受け継いだが、そもそもへーゲルの「弁証法」とはいかなるものなのか。へーゲルの弁証法を理解するためには、カントの『純粋理性批判』にまでさかのぼる必要がある、と私は考える。カント、へーゲル、マルクスとその弁証法、あるいは理性的思考の理解は、微妙に変化しててる。・・・(下に続く)


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マルクスは、へーゲルの「弁証法」を受け継いだが、そもそもへーゲルの「弁証法」とはいかなるものなのか。へーゲルの弁証法を理解するためには、カントの『純粋理性批判』にまでさかのぼる必要がある、と私は考える。カント、へーゲル、マルクスとその弁証法、あるいは理性的思考の理解は、微妙に変化しててる。
 簡単に言うと、こういうことだろう。カントが、近代科学や経験科学の合理性と客観性を確保するために「理性」や「理性的思考」に限界をもうけるが、これに対してへーゲルは、カントが限界づけた理性を、近代科学が及ばない領域にまで自由に解放し、それを弁証法と名づける。へーゲル的弁証法を受け継いだマルクスは、へーゲル的弁証法を哲学から経済学へと唯物論的に転倒する。

 カントは『純粋理性批判』で、理性的思考を、「物自体」の世界にまでは及ばないと、つまり理性的思考を現象の世界に限定した。つまり、カントの理性的思考は、「物自体」の世界からは排除されている。言い換えれば、カントの『純粋理性批判』は、理性的思考がある限界を持っていることを証明しようとするものである。しかし、理性に限界があるといっても、そこで理性的思考は満足し、そこで終わるわけではない。理性的思考は、その限界を飛び越えて、神の問題や死の問題など、思考しようとするからだ。だから、カントは『純粋理性批判』の後で、『実践理性批判』や『判断力批判』を書かなければならなかったのである。
 
要するに、カントは、近代科学の正当性(真理)の根拠づけを行うと同時に、文学や芸術、宗教・・・のような世界を、理性的思考では追求できない二律背反の領域として残したのである。この残された二律背反の世界に、へーゲルやマルクスは、「弁証法」という方法で接近していくのだ。へーゲル=マルクス的な弁証法は、カントが限界づけた境界線を突破していくところに成立する。私は、この「境界線を突破していく」という理性的思考力という問題こそ、「弁証法とは何か」を理解するために重要だと思う。
 カントは『純粋理性批判』の冒頭の序文で、こう書いている。

《人間の理性はその認識の或る種類において奇妙な運命をもっている。すなわちそれが理性に対して、理性そのものの本性によって課せられのであるから拒むことはできず、しかもそれが人間の理性のあらゆる能力を越えているからそれに答えることができない問いによって、悩まされるという運命である。》(カント『純粋理性批判』)

つまり、カントは、人間の理性は、たとえば、「経験科学」を越えたものを思考できないにもかかわらず、そ境界線を越えて、より深い世界を思考しようとする運命を持っているというわけだ。人間の理性は、理性で思考できないものを思考しようとする・・・。カントはそこで立ち止まろうとするが、へーゲルはそこを突破して大胆に先へ行こうとする。
  カントは、理性の能力に限界をもうけた。そうすることによって、カントは人間理性の確実性、客観性を確保しようとした。しかし、へーゲルは、その限界に満足しない。むしろ、へーゲル的理性は、カントが限定づけた理性の及ぶ範囲と限界を取り払い、その先へ進んでいく。それを肯定するところに、へーゲルの弁証法が成り立つ。
 たとえば、「人は語り得ないことについて沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインは言ったが、もた、次のようにも言っている。

《私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形式で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえ何かを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ。》(ウィトゲンシュタイン

 ヴィトゲンシュタインは「人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある」「われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」と言う。ここで、ヴィトゲンシュタインが言うものは、へーゲルの弁証法とそれほど異なってはいない。ヴィトゲンシュタイン論理実証主義分析哲学の開祖と言われているが、むしろ、その哲学的本質は、ドイツ観念論やへーゲル的弁証法に近いと言わなければならない。
 カントは、そういう限界を突破して突進する人間の思考力を理解してはいたが、しかし、学問や近代科学を、形而上学的迷妄や妄想から守るためには、どうしても、「経験」という尺度と限界と境界線を設ける必要があった。
 カントは、『純粋理性批判』を出版するまで、10年間沈黙していたといわれる。こカントの「10年間の沈黙」とは何か。カントは、この10年間に、「リスボン地震」を予知・予言したスウェーデンボルグの「超能力」や「霊能力」を研究していた。科学者であり、霊能力者であったスウェーデンボルグの「超能力」をなかば認めながらも、近代科学を合理的に根拠づけを、つまり近代理性の客観性を根拠づけるために、理性的思考力とスウェーデンボルグ的超能力と区別し、限界付け、境界線を設ける必要があったからだ。
(続く)



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