哲学者=山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『ネット右翼亡国論』『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

カントの10年間の沈黙。  カントは、『純粋理性批判』を出版するまで、10年間沈黙していたといわれる。こカントの「10年間の沈黙」とは何か。カントは、この10年間に、「リスボン大地震」を予知・予言したスウェーデンボルグの「超能力」や「霊能力」を研究していた。 ……<<下に続く。ここをクリック。>>


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カントの10年間の沈黙。
 カントは、『純粋理性批判』を出版するまで、10年間沈黙していたといわれる。こカントの「10年間の沈黙」とは何か。カントは、この10年間に、「リスボン地震」を予知・予言したスウェーデンボルグの「超能力」や「霊能力」を研究していた。科学者であり、霊能力者であったスウェーデンボルグの「超能力」をなかば認めながらも、近代科学を合理的に根拠づけを、つまり近代理性の客観性を根拠づけるために、理性的思考力とスウェーデンボルグ的超能力と区別し、限界付け、境界線を設ける必要があったからだ。


 繰り返すが、そのカント的理性の限界を突破していくところにへーゲル的理性、つまりへーゲル的弁証法は成立する。

 《哲学は経験のなかからはじめてうまれてくるとはいえるけれども、しかし、じつのところ、思考はその本質からして、直接に目の前にあるものを否定していくものである。》(『精神現象学』)

 「直接に目の前にあるものを否定していく」とは、人間の思考は、経験をも超えていくということである。要するに、人間の思考は、経験的に真偽が明らかでないような闇の世界にまで、踏み込んでいく。その闇の世界を排除したら、近代科学でさえ進歩・発展しない。経験や実証性を重んじる科学さえ、経験や実証性の積み重ねで、その延長上で進歩・発展するとは限らない。たとえば、アインシュタインのような天才科学者の思考力に、超能力のようなものが、まったくなかったとは言えない。
  へーゲルは、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言った。これは、言い換えれば、人間の思考が、経験を超えて突き進むという現実があるあるとすれば、人間理性もまた経験を超えているということであろう。つまり「否定の運動」としての「思考の無限運動」を、へーゲルは認めるということである。「思考の無限運動」に限界や境界線を設け、その中に閉じこめるということこそ、むしろ非現実的だということだ。
  では、へーゲルの弁証法とはどういうものか。へーゲルは、弁証法の「否定の運動」について、「つぼみ」「花」「果実」を例にだして、次のように説明している。

《つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つぼみは花によって否定されると言ってもよい。同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真として果実が花の代わりとなる。》(同上)

 「つぼみ」が「花」になるということは、「つぼみ」が「花」によって否定されるということである。そして「花」は「果実」になることによって否定される。この否定と成長の過程を、へーゲルは弁証法と言っているように思われる。この植物の話は分かりやすい。しかし、ここでは植物を例に出しているが、へーゲルの弁証法は、植物だけに当てはまるのではない。人間存在を含めて、存在するものすべてに当てはまると言っていると思われる。続けて、こう言っている。


《これらの形式は互いに異なっているだけでなく、互いに相容れないものとして斥け合う。しかし、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時に有機的統一の契機となり、この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか、一方は他方と同じように必然的である。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り立つのである。》(同上)

 矛盾や対立があるから駄目なのではなく、矛盾や対立があうるからこそ有機的統一が保たれ、全体という生命が成り立つというわけである。
 しかし、この矛盾や対立を理解しない人が少なくないとへーゲルは言う。様々な哲学体系や哲学理論が存在するが、それぞれの哲学体系の差異や矛盾について、へーゲルは、どちらが正しいか、どちらが間違っているが問題ではなく、ともに「真理」に到達するために必要だと言っている。

《想念(思いこみ)というものは、真と偽の対立を固定させるものである。が、そうなればなるほど想念(思いこみ)は現存の哲学体系に対し賛成か反対かの何れかを期待し、この体系について説明するときには、賛否の何れかだけを見るのが普通である。想念(思いこみ)は諸々の哲学体系のちがいを、真理が前進するときの展開とはみないで、このちがいのになかに矛盾だけをみている。》(同上)

へーゲルは、哲学体系の真偽や優劣は問題ではないと言っている。それぞれの哲学大系は、「真理が前進するときの展開」として重要だと。私は、かねがね、「イデオロギーから存在論へ」と主張しているが、真偽や優劣を問題にするのは「イデオロギー的思考」である。へーゲルが弁証法と名づけたものこそ、私が「存在論」と言っているものに近いのではないかと思われる。「矛盾を理解すること」、それが弁証法であり存在論である。しかし、へーゲルは言う、「矛盾を理解しないのが普通である」と。
(続く)

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