哲学者=山崎行太郎のBlog『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。元・東工大講師、元・埼玉大学講師。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『それでも私は小沢一郎を断固支持する』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『柄谷行人とヘーゲルとマルクス』など。緊急連絡(レポート)は、メールフォームからお願いします。➡︎https://ws.formzu.net/fgen/S49964599

テクストとしてのヘーゲルー(『マルクスとエンゲルス』)---(下へ続く。続きを読みたい人は、ここをクリック。)

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テクストとしてのヘーゲル

 私が、この「マルクスエンゲルス」という連載で試みようとしていることは、マルクスやへーゲルなどの思想体系を解説・説明することではない。何故、そういう思想体系、哲学大系を作り出したのか、あるいはそういう思想体系や哲学体系を作り上げる思考力の秘密は、何処にあるのか、という疑問に答えることである。
 ところで、最近の論壇やジャーナリズム、アカデミズムの議論や言説には、この「思考力」や「思考力の神髄」が欠如しているように見える。何処を見ても、同じような議論や言説が横行している。紋切り型の議論や言説ばかりが、溢れかえっている。「考える」というよりは「考えさせられている」と言うべきだろう。テレビや新聞で報じられたような解説や評論が、あたかも自分のオリジナルな解説や評論であるかのように、それが実は受け売りや模倣やパクリであると分かりつつも、反復されている。思想的停滞とか思想的荒廃とは、こういうことを言うのではないか。

 「テクストとしてのマルクス」ということが言われたことがあった。ソシュール言語学やポスト・モダン思想やテクスト論というようなものが、文壇や論壇、あるいはアカデミズムやジャーナリズムなどで爆発的に流行していた時代である。
 「テクストとしてのマルクス」とは、おそらく、マルクス主義という理論体系ではなく、マルクスという思考主体の実存が強調されたということだ。しかし、その頃でも、思考主体としての実存なるものが、活発に躍動していたわけではない。「思考主体としての実存」を重視すると言っても、それを主張しているその人の思考が、実存的であるかどうかは別である。むしろ、「テクストとしてのマルクス」が強調されればされるほど、陳腐な、紋切り型の思考が繰り返されたといっていい。

 その頃でも、へーゲルは、「テクストとしてのへーゲル」と呼ばれたことはない。マルクスはテクスト的であるが、へーゲルは体系的だと思われていたように思われる。つまり、へーゲルだけは、常に、哲学大系としてのへーゲル主義であって、生成過程としてのへーゲル、あるいは思考主体としてのへーゲルの実存が問題になったことはない。弁証法とか観念論、あるいは弁証法的観念論という理論的側面だけが、強調された。つまり、無味乾燥な理論や体系の人としてのへーゲルである。私も、長いあいた、そう思っていた。しかし、はたして、へーゲルには、「テクストとしてのへーゲル」という表現はありえないのか。

最近、へーゲルの著作を読んでいくうちに、私は、そういうへーゲル論、へーゲル観に疑問を持つようになった。へーゲルほど、前人未踏の未開地に、大胆に思考の手を伸ばした哲学者はいないのではないか、と。へーゲルこそ思考した人ではないのか、と。つまり、「テクストとしてのへーゲル」という表現が、へーゲルにこそ当てはまるのではないか。キルケゴールをはじめ、へーゲルを批判する人々は、常にへーゲルではなくへーゲル主義を批判してきた。むろん、そういうへーゲル批判は、間違ってはいないだろうが、必ずしも正確ではない。もう一度、キルケゴールのへーゲル批判を思い出してみよう。柄谷行人の「掘立小屋での思考」から。

マルクス主義実存主義、あるいはそれに類する問題の立て方がある。私が理解できないのはその種の議論であって、いつもこんなふうに考えていた。なぜひとは、たとえばマルクスという゛実存゛そのものをみようとしないのだろうか。へーゲルは大きな建物を建てて自分はその脇の掘建小屋に住んでいるのだ、とキルケゴールはいっている。しかしへーゲルだけではない。どんな人間も実は掘建小屋に住んでいるのである。そして、そういう場所でものを考え生活しているのだ、と私は思っている。》(柄谷行人「掘建小屋での思考」)

「ものを考えている」とは、掘建小屋で考えることだ。つまり、ゼロから根源的に考えることは、掘建小屋でしかできない。どんな壮大な思想体系を築き上げた思想家や哲学者も、はじめは、掘建小屋で考えたのである。


《どんな壮大な建物を頭の中に、また実際にたててみても、そのことに変わりがない。しかし、だからといって、われわれはなにを大げさに騒ぎたてる必要があるだろう。マルクスは騒ぎたてなかった。むろんソクラテスデカルトも騒ぎたてはしなかった。彼らはみな建物を土台から壊してしまった連中だが、それにもかかわらず彼らが何一つ悲鳴をあげもせず、むしろ快活に生きていたのは不思議といえば不思議だ。しかし、不思議でも何でもない。彼らはみ彼らの名を冠せられた「思想」などというものとは別のところで生きていたからである。》


同じことが、体系的な哲学者であったへーゲルにも言えるのではなかろうか。へーゲルはへーゲル思想体系の中にいるのではない。弁証法弁証法的観念論、あるいは法の哲学などは、へーゲルが築き上げた体系だが、へーゲルは、その体系の中で思考しているわけではない。
 長谷川宏は、若き日のへーゲルの思考についてこう言っている。

《青年へーゲルは時代の現実と深くかかわり、鋭く切り結ぼうとする。
》(『へーゲル「精神現象学」入門』)

これは、言い換えれば、へーゲルもまた、現実という認識対象の前で、きりきり舞いしながら、右往左往を繰り返し、現実と悪戦苦闘していたしていたということだ。冷静沈着、理路整然と、文字通り体系的に、一直線に思考していたわけではない。

しかし、人はそう考えない。へーゲルは理論の人、体系の人と勘違いしている。何故、人はへーゲルに対して、へーゲルではなくへーゲル主義でしか語ろうとしないのか。何故、へーゲルの「実存」を見ようとしないのか。私は、柄谷行人の分析を全面的に支持する。柄谷行人の指摘するように、へーゲルもまた、掘建小屋で考えたのだ。理論や体系にそって考えたのではない。


最近、「現代思想」の最新号で、柄谷行人は、以前にも何処かに書いてあったような、同じようなことを繰り返している。理論や体系を繰り返しているのか。柄谷行人にとっては、同じようなことが、同じではなく、常に新鮮なのだ。体系や理論を語る人は、同じような理論や体系を語ることを警戒し、常に新しい理論や体系を語ろうとするものだ。柄谷行人は、何故、同じような議論を繰り返すのか。柄谷行人が、体系や理論に依拠して考える人ではないということだろう。たとえば、

《『資本論』第二版後記で、マルクスはへーゲルについて語っている。彼はほぼ三十年前に、へーゲル弁証法の神秘的な側面をそれがまだ流行していた時点で批判したのだが、へーゲルがもはや「死んだ犬」として扱われていた時点で、へーゲルを賞賛したのである。》(「精神としての資本」)

 柄谷行人は、マルクスが、「へーゲルからマルクスへ」、あるいは「観念論から唯物論へ」という理論的変遷を認めているにもかかわらず、へーゲルを賞賛しているという。つまり、マルクスが、「死んだ犬」であるはずのへーゲルを賞賛していることに、柄谷行人は執拗にこだわっているのだ。マルクスは、何故、乗り越えられ、捨て去られ、「死んだ犬」に成り下がったはずのへーゲルを賞賛するのか、と。ここに、実は、マルクスエンゲルスの差異が、あるいはマルクスフォイエルバッハとの差異がある。
 そこで、柄谷行人が「マルクスの言葉」を引用しているので、われわれも引用しておこう。マルクスは、そこで、何を言おうとしているのか。あるいは柄谷行人は何を言おうとしているのか。

《だから、私は自分があの偉大な思想家の弟子であるとおおぴらに認め、しかも、価値論に関する章のあちこちでへーゲル特有の表現法におもねることさえした。弁証法がへーゲルの手中で神秘化されたとしても、
このことによって、弁証法の一般的な運動形態を最初に包括的または意識的に述べたのが彼であったということは、いささかも妨げられるものではない。》(マルクス資本論』第二版後記)

 この「マルクスの言葉」は、明らかにへーゲルを賞賛し、擁護するものだ。しかし、へーゲルをこのように賞賛、擁護するのはマルクスだけである。マルクスは、ここでへーゲルの「思考」ないしは「思考力」を賞賛、擁護している。マルクス以外の人たちにはそれが分からない。マルクスは、続けて、次のように言うからだ。
 
弁証法は、へーゲルのばあい、頭で立っている。神秘的なヴェールのなかに合理的な核心を発見するためには、それを、ひっくりかえさなければならない。》(同上)

理論や体系でモノを考えようとする人たちは、ここで、マルクスとともにへーゲル弁証法唯物論的に転倒する。そしてそれで、すべてが分かったと錯覚する。へーゲル哲学を乗り越えたと錯覚する。マルクスが、その直前にへーゲルを賞賛し、擁護したという事実を忘れる。「観念論から唯物論へ」という単純素朴な発展図式しか見ようとしなくなる。むしろ、彼らこそ、唯物論的転倒の哲学を主張しながら、逆に観念論の虜になっているということができる。



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(続く)

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