山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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清水正と私と『ドストエフスキー論全集全10巻』ー〜〜〜(下へ続く。本文を読みたい人は、ここをクリック。)

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清水正と私と『ドストエフスキー論全集全10巻』

(1)
清水正教授の『ドストエフスキー論全集全10巻』の刊行を勧めたのは私である。私は、ドストエフスキー研究者界隈で、清水正教授の膨大で、緻密な「ドストエフスキー研究」という輝かしい業績が、不当に軽視され、黙殺されているように感じたからである。実際は、そんなに軽視され無視されていたわけではないかもしれないが、少なくとも私は、そう感じていた。だから、「清水正ドストエフスキー論」を集めた『ドストエフスキー論全集全10巻』のようなものを刊行し、ドストエフスキー研究者界隈に、「これでも無視するのか」と宣戦布告するべきである、と。その『ドストエフスキー論全集全10巻』も、いつのまにか完結が近づいている。今や、「清水正を知らずしてドストエフスキーを語る
なかれ」ということが常識の時代が来たと言っていい。清水正ほど、若い頃からドストエフスキーを熟読し続け、論じ続けた人を私は知らない。質においても量においても、ドストエフスキー研究やドストエフスキー論の領域で、清水正に太刀打ちできる者ははいない。私が愛読し、畏怖している小林秀雄さえ、ドストエフスキーということなると、やはり見劣りする。他は推して知るべし。
(2)
清水正教授より私は、二歳か三歳年長である。しかし、私は、大学生時代、まだ、何事も成し得ていない頃、つまり単なる凡庸な学生でしかなかった頃、池袋駅西口にあった行きつけの某書店で、清水正の「ドストエフスキー論」(『ドストエフスキー体験』?)の「粗末な本」を書棚で見つけ、立ち読みしたことがあった。実は、私もドストエフスキーに興味があり、よく読んでいたから、その種の本や文章には敏感だったのである。しかし私は、後書きや経歴を覗いて、すぐにその「粗末な本」を、書棚に戻したことを覚えている。何故、書棚に、すぐ戻したのか? 私は、自分より年下の学生が、しかも日大芸術学部の学生が、「ドストエフスキー論」を書き、それを、粗末な装丁とはいえ、出版して、しかも
その本が大きな書店の書棚に並んでいるという現実を、驚きと怒りと自己嫌悪を感じ、受け入れがたかったからである。つまり素直に読めなかったというのが、実状である。だから、内容も覚えていない。しかし、清水正という名前は、強烈な記憶として残った。私は、その時、清水正という名前を覚えた。ドストエフスキー清水正
それから、大分、経ってから、私は、清水正教授と交流を持つようになった。何が、私と清水正を結びつけたのか。もちろんドストエフスキーである。ドストエフスキー以外にない。
現在では、清水正は、私が頻繁に交遊する唯一の文学者である。毎週、金曜日には、江古田で、「金曜会」と名付けた飲み会兼、芸術思想研究会(?)を続けている。清水正は、現在も、ビールやホッピーを飲みながら、飽くことなくドストエフスキーを語り続けてている。私は、いつも文学的、思想的刺激を受け、それが、私の文芸評論の栄養になっていることは間違いない。
私は、ロシアのベテルブルグにも、ベトナムホーチミンやダラットにも、またインドネシア、中国の大連や旅順にも、そして台湾にも・・・、清水正に誘われて、一緒に旅行している。清水正がいなければ、私は、こんなに頻繁に海外旅行などしていなかっただろう。私は、「人生の後半は、畏友・清水正とともに過ごした」ということになると思う。
(3)
さて、私が、最初に本物の清水正を間近に見たのは、文芸評論家の富岡幸一郎の結婚式だった。場所は、明治記念館清水正は、仲人として出席していた。私は、当時、若手批評家が集結していた「批評研究会」の仲間の一人として、三田誠広岳真也川村湊渡部直己、菊田均等の中に、まぎれこんでいた。たしか、富岡幸一郎が師事していた秋山駿もいたと思う。しかし、その時は、一言も喋っていない。遠くから、「あれが清水正か・・・」と眺めていただけだった。長身痩躯で、近寄りがたい、ドストエフスキー的な雰囲気の人だった。
私が二回目に清水正と出会ったのは、私の『小説三島由紀夫事件』の出版記念会だった。清水正は、出版会の司会をしてくれた某氏の友人として出席してくれたのだった。しかし、この時も、簡単な挨拶をしただけで、まともに口をきいていない。その後、清水正教授から直接電話があり、私は日大芸術学部の非常勤講師となり、毎週、講義後、江古田界隈の居酒屋で、清水正教授と酒席を共にするようになった。
二十歳そこそこで、池袋の某書店で、「清水正」という名前を発見し、記憶して以来、忘れたことはなかったが、私が、清水正と「唯一無二の親友」(笑)になるとは予想もしていなかった 。
(4)
いずにしろ、清水正は、ドストエフスキーを読み続けていた。そしてドストエフスキー論を書き続けていた。私もそうなりたかったが、私には出来なかった。私は、50年も60年もドストエフスキーを読み続け、ドストエフスキー論を書き続けたという一点で、清水正の「ドストエフスキー体験」の深さと恐ろしさを感じる。清水正ドストエフスキー論は、趣味でも研究でもない。清水正の人生そのものである。清水正ドストエフスキー論は、私の言葉で言えば、「原理論」的側面と、「存在論」的側面の両面を持っている。          
清水正氏の「ドストエフスキー論全集」の最新刊には、「椎名麟三ドストエフスキー」という作品も収録されている。私は、清水正氏が書いた「志賀直哉ドストエフスキー」や「萩原朔太郎ドストエフスキー」には、あまり関心がもてないが、「椎名麟三ドストエフスキー」には関心がある。実は、私も、高校生時代、椎名麟三を読み、そのドストエフスキー論に深い影響を受けたという体験を持っているからである。しかし、清水正は、椎名麟三ドストエフスキー論に影響を受けていないらしい。最初から、椎名麟三ドストエフスキー論を越えていたのだろう。

(5)
私は、もともと「読書好き」子供ではなかった。どちらかと言えば、「読書嫌い」の子供だった。要するに、「物思う内向的な少年」ではあったが、本を読む習慣はなかった。しかし、高校生になって、私は、突然、ある教師の話から、読書に目覚めた。その教師は、小野重朗のという名前で、普段は「生物学」を担当してる教師だったが、余技に、土、日になると、南九州の「民俗学」の現地調査をしているという人だった。つまり、全国にいる柳田国男の「民俗学」の弟子の一人だった。小野先生のテーマは、「南九州の農耕儀礼の研究」だった。だから、小野重朗先生の話は、話題豊富で、いつも面白かった。ある日の話に、「竹の花が咲くと、ネズミが異常繁殖する。そして、大量に増えたネズミは、海に
向かって次々と飛び込んでいき、集団自殺する」という話があった。私、何故だか分からないが、この話に感動した。小野重朗先生は、開高健という作家の「パニック」という小説に書いてあると教えてくれた。私は、「開高健」を知らなかった。
私は、初めて図書館というところに行った。開高健の本を探しだし、その本を借り出した。その本は、角川書店発行の「現代日本文学全集」の中の一冊で、開高健大江健三郎が収録されていた。私にとっては、それが運命的な本との出会いになった。
私は、早速、「パニック」を読んだ。「パニック」はそこそこに面白かったが、それよりも、私には、大江健三郎の小説の方が、はるかに面白かった。『奇妙な仕事』『死者の奢り』など。私は、その後、大江健三郎の文庫本を探しだし、生まれてはじめて、自分の小遣いで、書店で買った。
それから、私の「読書狂い」と「書店めぐり」がはじまったのだった。

(6)
その頃、たまたま岩波新書の『現代の作家』(中野好夫編)を読んだ。そこには、何人かの有名な作家たちの「作家になるまでの体験記」が収録されていた。そこに、志賀直哉川端康成の文章にまじって、椎名麟三の文章もあつた。不思議なことに、私は、椎名麟三の文章に、一番、感動した。何故だか分からなかった。何か、その頃の自分と共通する問題意識を感じたのであろう。

《そういう状況の中で、ついにドストエフスキーにぶつかったのだ。》という文章に出会って、私はドストエフスキーを本格的に読むようになった。さらに、椎名麟三は書いている。
《僕は文学に眼を開かれたというか、文学に希望を見出すようになったのは、もう三十にも近くなっていた。しかもドストエフスキーからいきなり入って行ったのだから、ほかの人の行き方とは変わっているかも知れない。》

私は、やや大袈裟な表現に疑問も感じたが、しかし、椎名麟三の言葉に嘘があるとは思えなかった。私も、椎名麟三がそこに書き記したニーチェヤスパースハイデッガーキルケゴールを読みたいと思った。私は、椎名麟三からドストエフスキーを学んだ。哲学を学んだ。椎名麟三の表現は、荒削りだが、間違ってはいない。私は、椎名麟三の小説を読みたくなった。
椎名麟三のデビュー作『深夜の酒宴』で、私は、「イデオロギーから存在論へ」、あるいは「存在論的思考」というものを学んだ。椎名麟三は大作家ではない。知性的なインテリ作家でもない。しかし、本質的な作家ではあるというのが、私の椎名麟三論のすべてである。したがって、私は、椎名麟三からドストエフスキーを学んだが、椎名麟三ドストエフスキー論の詳細には、あまり興味がない。
しかし、清水正は、椎名麟三ドストエフスキーの詳細に、関心があるようだ。したがって、「椎名麟三ドストエフスキー」は、椎名麟三ドストエフスキー体験、つまりドストエフスキー解釈の内容を深く追求している。椎名麟三は、「ドストエフスキー体験」を熱く語っているが、その体験や解釈は、必ずしも厳密とはいい難い。清水正は、椎名麟三の体験と解釈の曖昧さと不徹底、を厳しく追求している。清水正ドストエフスキー論が、単に「存在論」的であるだけではなく、「原理論」(研究)的でもあることがわかる。たとえば、清水正はこう書いている。

椎名麟三の『私のドストエフスキー体験』は気になっていた本ではあった。しかし、この本を真剣に読み通した記憶がない。わたしがドストエフスキーに熱中していた十代後半、ずっと気になっていたのは小林秀雄ドストエフスキー評論であって、他の日本人のドストエフスキー論に注意を向けた ことはなかった。当時のわたしは、自分が最もドストエフスキーに心酔していると思って微塵も疑っていなかったので、戦うべきは小林秀雄一人と思いこんでいたのである。椎名麟三の『私のドストエフスキー体験』など、ざっと目を通して、別に真剣に検証するほどのものではないと判断したのである。》(『椎名麟三ドストエフスキー』)

「十代後半」の段階で、同じくドストエフスキーを読んでいたとはいえ、清水正と私の差異は大きかったという事である。