山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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小谷野敦『 江藤淳と大江健三郎』( ちくま文庫)を読む( 2 )。 小谷野敦は、自分は東大大学院修了の一流の研究者( 学者?)だと、思っているようだ。そういう視点から、江藤淳と大江健三郎を読んでいるから、一流の文学者である江藤淳や大江健三郎に対する尊敬や畏怖の感情が足りない。小谷野敦が一流の文学者( 研究者)で、江藤淳と大江健三郎が二流、三流の文学者と錯覚しているかのような書き方をしている。( 続く)

小谷野敦江藤淳大江健三郎』( ちくま文庫)を読む( 2 )。

小谷野敦は、自分は東大大学院修了の一流の研究者( 学者?)だと、思っているようだ。そういう視点から、江藤淳大江健三郎を読んでいるから、一流の文学者である江藤淳大江健三郎に対する尊敬や畏怖の感情が足りない。小谷野敦が一流の文学者( 研究者)で、江藤淳大江健三郎が二流、三流の文学者と錯覚しているかのような書き方をしている。つまり、終始、上から目線で江藤淳大江健三郎に向きあっているということが出来る。したがって小谷野敦は、特に江藤淳に対する下世話な批判と揚げ足取りに終始している。下世話な話でもいい。しかし小谷野敦には、下世話な話から文学の本質論へ、あるいは作家、文学者の本質論へ、という思考回路がない。たとえば、江藤淳の父親は、「中央大学卒業」の銀行員だったらしいが、江藤淳は、その父親の学歴を恥じていたらしく、隠蔽して書いていない、と面白おかしく書いている。そんな話は、江藤淳大江健三郎にあまり興味のない人間には、面白いかもしれないが、私のように、学生時代から、江藤淳大江健三郎を熟読し、かなり深い影響を受けて来た人間から見ると、この話は、江藤淳の批評のキーワードである「父親論 」、あるいは「 治者の文学」論へと繋がっていくはずだが、小谷野敦には、そんなことはどーでもいいらしい。だから、小谷野敦は、江藤淳の「批評」や大江健三郎の「小説」に関しては、表面的な知識しか持っていず、肝腎なことは、何もわかっていないなーとしか思えない。だから、小谷野敦が本書で追求しているのは、文学の本質というより、私生活やスキャンダルだけである。本書は評伝や伝記だから、それでいいと小谷野敦は思っているのかもしれないが、そこに小谷野敦が、三流の文学者( 比較文学者 )でしかない現実が露呈していると言っていい。 小谷野敦は、後期の江藤淳が真剣に取り組んだ「占領研究」にも、「押し付け憲法論」にも、あるいは「検閲問題」にもほとんど興味が無いらしい。小谷野敦に言わせると、全部、無意味だったということになる。