山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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小谷野敦の『江藤淳と大江健三郎』を読む。(3)( 続く)

小谷野敦の『江藤淳大江健三郎』を読む。(3)

たとえば、三島由紀夫の自決事件をめぐる小林秀雄江藤淳の対談は、「日本の歴史を病気というか」という小林秀雄の言葉が象徴するように、厳しい言葉のやりとりで有名だが、この対談を引用した後、小谷野敦は、こう書いている。

《この後小林は、吉田松陰はどうかと言い、吉田松陰は三島は違う、と江藤は言うのだが、これは江藤の言うのが正しいので、私はこんなのを読むと、なんで小林秀雄のような馬鹿を日本人はありがたがるのか、情けなくなる。もっとも、その後の江藤の天皇崇拝も病気のようなところがある。》(『江藤淳大江健三郎』p240)

 まったく、小谷野敦にかかっては、江藤淳小林秀雄も「馬鹿」か「病人」にすぎなくなる。要するに小谷野敦の文学理解は滅茶苦茶である。小林秀雄江藤淳を「馬鹿」とか「病人」と罵倒出来る人は、どういう天才的な人物なのだろうか。そういう天才的な人がいたら見てみたいと思うだろう(笑)。もちろ?そんな人がいるわけない。小谷野敦は?  もし、小谷野敦が正しいとすれば、日本の文学の大半は、文学的価値ゼロと言うことになる。むろん、そんなはずがない。小林秀雄は「馬鹿」で、小谷野敦は「天才」なんて、誰も考えないだろう。小谷野敦が、文学も思想も理解できない、単なる「学歴馬鹿」「学者崩れ」にすぎないということか゛わかるだけである。  たとえば、こんなことも書いている。

 《この連載では、(江藤淳は)東大より慶応に入りたかったとまで書いている。ところでずっと後、1995年10月の「三田評論」に、編集長・高橋昌男のインタビュー「漱石に見る現代日本 江藤淳君を訪ねて」というのが載っている。当時江藤は60過ぎで「君」とはまた、と思っていたら、『三田評論』では、慶応出身者はみな「君」づけらしいのである。気持ち悪いことである。》(p232)

 小谷野敦の「東大王」的、「クイズマニア」的な雑学的知識の量には敬服するが、それにもかかわらず、初歩的な無知をさらけ出してもいるのだから笑わせる。たとえば「高橋昌男」は、「三田評論」編集長ではない。高橋昌男は、この時、「三田文学」編集長ではあったが、「三田評論」編集長ではなかった。実は、私も、江藤淳の何回か後に、同じ「三田評論」の高橋昌男による「インタビュー」シリーズに登場している。さらに、教授や卒業生を「君」と呼ぶのは、慶応のちょっとしした慶応独特の習慣であり伝統である。慶応では、建前上は、「先生」は「福沢諭吉」だけであり、教授も先輩もどんなに偉くても、「○○君」なのである。「気持ち悪い」などと、別に目くじらたてるような問題ではない。東大にも東大独特の習慣や伝統があるだろう。東京農大の「大根踊り」を気持ち悪いという人はいない。    江藤淳の初期の代表作の一つである『作家は行動する』という文体論の名作について、小谷野敦は、こんなことも書いている。

《一月に書き下ろし評論『作家は行動する』が刊行された。これは文体論ということだが、題名で誤解を受けやすい。「行動」というのは、文体が作家にとっては行動だという意味らしい。(中略)いかにも若い江藤淳が、理論的なことも分かるということを示すために書いたようで、晦渋であり、「言語」と「文体」を同じ意味で使っていたりして、事実上読解不能である。江藤は、サルトルを手本にしたと書いているが、ネタ本はサミュエル・イチエ・ハヤカワの『思考と行動における言語』だろう。》(p146)

  ここでも、小谷野敦の「馬鹿っぷり」は、パーフェクトである。そもそも、小谷野敦は、文体や文体論というものに興味がないらしい。もちろん分かっていない。その小谷野敦が、江藤淳の文体論『作家は行動する』を、上から目線で否定するのである。小谷野敦は、大江健三郎の文体を絶賛した江藤淳の主体的文体論が、まったく理解できていないことは明らかだ。江藤淳は、主体的文体とは、サルトルアンガージュマン(参加)の実存思想を参考にして、現実に「行動的に参加する文体」だと言っている。しかし、小谷野敦は、江藤淳は、サルトルを手本にしたと言うが、ネタ本は、サミュエル・イチエ・ハヤカワの『思考と行動における言語』だろう、と言う。「サミュエル・イチエ・ハヤカワ」と書くあたり、ちょっとした東大大学院終了の教養を自慢したつもりのようだろう。普通、「S・I・ハヤカワ」と書く。それで充分だろう。  さらに、「恥の上塗り」として、こんなことまで書いている。《最初から、言語と文体を混同している。》と。「言語」も「文体」も本気で考えたことのないらしい小谷野敦が、江藤淳は「言語」と「文体」を混同している、とは・・・。是非、小谷野敦の言語論や文体論を読んでみたいものだが、まず無理だろう。