山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

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ドストエフスキー論の一夜。鹿児島県薩摩半島の「毒蛇山荘」で清水正教授と対談した夏。

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ドストエフスキーの一夜

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数年前、鹿児島県薩摩半島の寒村にある毒蛇山荘という名の我が生家=廃屋で、清水正=日大芸術学部教授とドストエフスキーを巡って、対談したことがある。今年よりも猛暑が続く夏であった。普通なら、秋風が吹く九月というのに、その年は、まだ猛暑が続いていた。その猛暑の一夜、夜更けまで、清水正と私は 、ドストエフスキードストエフスキーの『罪と罰』を巡って、真剣に対談したのである。言うまでもなく清水正ドストエフスキー研究の第一人者である。ドストエフスキーを語りはじめると、体温が数度上がると公言しているドストエフスキー=キチガイである。私のような「ど素人」が対談できる相手ではない。だが猛暑の一夜、清水正は、私を相手に 、飽くことなくドストエフスキーについて語り続けた。その対談は、清水正が主宰する 「ドストエフスキー研究」という雑誌に掲載されたが、私は、そのまま捨て去るには忍びなかったので、昨年出版した拙著『ネット右翼亡国論』の巻末に、塩見孝也との対談とともに収録した。その清水正との対談の一夜は、私にとっても、我が「毒蛇山荘」にとっても記念すべきものになった。 私は、両親が、精魂込めて、生涯の唯一の「傑作作品」( (笑))として建てた我が家を、そのまま朽ち果てさせるのが嫌だったので、その頃、「毒蛇山荘」と名付け、「別荘」替わりにすることにしたのである。だから 私は、せめて、私が生きている限り、この実家「毒蛇山荘 」を、廃屋になろうとも、そのまま残して起きたかった。この廃屋の一室で、清水正と私の対談が行われたのだ、という記憶だけでも残しておきたかった。だから、清水正教授や山下聖美教授(日大芸術学部教授、清水正の弟子 )を、山奥の廃屋に招待したのである。その直前には、まだ早稲田大学大学院生だった日本保守主義研究会の岩田温氏と彼の仲間の学生達が、一週間近く合宿した。これもまた、我が「毒蛇山荘」にとっては記念すべき出来事となった。岩田さんは、その後、大学教員になり、保守系政治学者として有名になったが、また今年、結婚したが、この夏の「毒蛇山荘合宿」が、青春時代の1ページとして、記憶に残っているらしく、結婚式でもこの話が出た。私は嬉しく感無量であった。亡くなるまで迷惑をかけ続けた父や母に、「恩返し」が出来たのではないかと思ったものだ。 青森に太宰治の「斜陽館」があるように、鹿児島には、我が「毒蛇山荘」がある 、というわけだ。(笑) ところで、話しを元に戻すと、清水正は、ドストエフスキー研究家として、日本だけではなく、世界的にも、特筆すべき人物である。清水正は、日大芸術学部の出身だが、東大卒や東京外大卒のドストエフスキー研究家等を、たとえば江川卓亀山郁夫等を遥かに凌いでいる。江川卓亀山郁夫ドストエフスキー論は、私に言わせれば、解説や紹介のレベルを超えていない。逆に、清水正には『 ドストエフスキー論全集10巻』があるように、質においても量においても他の追随を許さない。清水正ドストエフスキー研究やドストエフスキー論には、「存在論」と「 存在論的思考力」がある。清水正ドストエフスキー論には、清水正の人生と青春と生活の全てがそそぎこまれている。大袈裟に言うならば、血と汗と涙の記録。清水正ドストエフスキー論は、清水正の「 私小説 」の様相を呈している。だから、私が尊敬し、畏怖するドストエフスキー研究家は、小林秀雄を除けば、清水正だけである。私は、凡庸な三流教授が、業績作りのために、あるいはマスコミの求めに応じたやっつけ仕事でしかないドストエフスキー研究などに興味がない。ドストエフスキー研究に命を賭けているのか、が問題なのだ。 実は、私も、高校時代からドストエフスキーを読み始めた。そして、深い決定的な影響を受けた。私の文学的=哲学敵思考の原点には、大江健三郎小林秀雄とともにドストエフスキーがある。私は、頻繁に「存在論 」や「 存在論的思考」という言葉を使うが、それは、小林秀雄ドストエフスキーから学んだものである。だから、私は、高校時代から、大学ではロシア語とロシア文学を専攻し ドストエフスキー研究者になろうと想っていた。受験のために上京すると、私は、早稲田大学理工学部のの学生だった兄の影響もあり、早大露文科も受験した。早稲田大学以外に、「露文科」は存在しなかったからだ。私は、語学専門の東京外大のロシア語学科は嫌いだった。だが、直前に断念した。ドストエフスキーを読みつずけることに恐怖のようんなものを感じはじめたからだ。ドストエフスキーの文学には「狂気のようなもの 」、あるいは「 魔的なもの」があった。研究対象として客観的に読むのは大丈夫かもしれないが、主体的に、本気でドストエフスキー読みつずけるとなると、自分も狂いそうな予感がした。ましてや、文学研究の対象としてドストエフスキーを客観的に読むことには抵抗を感じた。もちろん、ドストエフスキー研究を断念したとはいえ、ドストエフスキーから完全に逃げた訳ではない。私は、ドストエフスー研究の道を断念し、より健全な分野へ逃げようと思ったが、ドストエフスキーは常に私の思考の原点にあり続けた。私の不遜な自信は、揺るいだことない。私は 、自分がダメになりそうな時には、小林秀雄ドストエフスキーを読み始めた高校時代の読書体験に立ち返った。その意味で、私は、挫折や失敗を繰り返しても、私の思考や思想に自信を失ったことはない。私は、ドストエフスキー読書体験から得たドストエフスキー的思考力に自信を持ち続けた。私は、結果的には、慶應義塾大学の哲学科に進学し、その後、哲学研究者の道も閉ざされ、紆余曲折を経て、初心に立ち返り、「文芸評論家」なったが、今では、それが正解だったと思う。 しかるに、清水正は、高校時代から大学、 大学院を含めて、ひたすらドストエフスキーを読みつづけたという。ちょうど、日大紛争、日大全共闘の頃だったが、脇目も振らず、20代の頃からドストエフスキー論を書き続け、現在に至るまで、膨大なドストエフスキー論を書き残している。私は、清水正を羨ましいと思ったことはないが、私が出来なかったことを、黙々と実行し、実現 、達成しているのを見ると、ただもう脱帽せざるをえない。 清水正は、私がまだ、大学院当たりで、将来のあてもなく、途方に暮れ、右往左往していた頃、最初のドストエフスキー論『ドストエフスキー体験 』を、自費出版している。江古田にあったゴム工場でアルバイトを続け、そこで稼いだ金を資金に自費出版したのだそうである。池袋の書店の棚に並んでいるのを、私も見たことがある。しかし、私は、敢えて無視しようとしたが、無視出来なかった。私は、自分より若い日大芸術学部の学生が、小冊子とはいえ、ドストエフスキーをタイトルに含む重厚な本を出版していることに驚愕すると同時に、それを素直に評価することが出来なかったのだ。 何十年も後に、つまり、清水正が、東大閥の無能教授たちが跋扈していた日大芸術学部内の派閥抗争を勝ち抜き、文芸学科の学科長として権勢を振るうようになった頃、私は、清水正から電話を貰い、非常勤講師を依頼された。当時、私は、埼玉大学の講師もやっていたが、私は、喜んで、それを受け入れた。私は、毎週金曜日に、日大芸術学部に出講するようになり、同時に、「金曜会」という呑み会、兼勉強会で、清水正ドストエフスキー研究とドストエフスキー論を拝聴するようになった。私は、私の「ドストエフスキー論」に自信を持っていた。素人なりに、小林秀雄や秋山駿等のドストエフスキー論を手引きに読み続けてきたという自信であった。しかし、清水正ドストエフスキー論を闘わせるうちに、私の「自信」は、あっという間に打ち砕かれた。清水正ドストエフスキー研究の凄さは、ドストエフスキー作品の隅々まで精通し、あらゆる登場人物を、事細かに知り尽くしている事だった。ドストエフスキーが書いていないことまでで、清水正は、精通していた。私は、打ちのめされた。打ちのめされた「道場破り」がそうするように、逆に喜んで「弟子入り 」することにした。もっとドストエフスキーを勉強したかったからである。

( 続く)

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