山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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ヘーゲルとマルクス

ヘーゲルマルクス

柄谷行人は、「ヘーゲルからマルクスへ」という転回を、一般的には、「観念論から唯物論へ」というのであるが、そうではなく、「事後の思考から事前の思考へ」の転回と捉えている。私には、これが、よく理解できる。柄谷行人は、ヘーゲルは、物事が終わってから、つまり結果論の立場から考えると言う。これなら、間違いはない。しかし、面白くもない。野球の試合が終わって、結果が出てから、その試合を分析する野球解説者に似ている。これに対して、マルクスやカントは、事前の思考を展開する。つまり、野球の試合が始まる前に、あるいは途中で、解説するような立場である。予測=予想である。当然、大きく外れることもある。しかし、結果論よりは面白い。何故か。そこに、生きた思考があるからだ。つまり事前の思考は生きた思考だからだ。生き生きとした思考が繰り広げられているからだろう。生き生きとした思考は、思考する当事者にも、またその思考に接する第三者にも、喜びと感動を与える。眠りかけていた思考が活性化する。私は、これをギャンブルに例える。ギャンブルにハマる人は少なくない。麻雀であれ競馬であれ、競輪であれ、そういう怪しい遊戯にハマるのは、そこには「事前の思考」があるからだ。ハラハラドキドキする思考。スリリングな思考。破滅するかもしれない思考。命懸けの思考。我々は、「良くない、止めよう」と思いつつも、悪魔に引き摺り込まれるようにギャンブルに「狂う」。事前の思考は、それほど魅惑的であり、悪魔的であり、非合理なものなのである。ギャンブルに狂うような人は、事前の思考の魔力に取り憑かれているのだ。しかし、一般的には 、人畜無害な「事後の思考」が溢れている。事後の思考からは革命も戦争も、そして芸術も芸能も生まれてこない。平凡で退屈な日常生活が延々と続くだけである。それを人は、平和とか幸福と呼ぶのかもしれない。逆に「 事前の思考」には、感動と同時に危険が付きまとう。安全志向の人間たちは、つまらないが、紋切り型の「 事後の思考( 後講釈 )」で、満足する。小林秀雄マルクスが面白いのは、彼等の思考が「 事前の思考」だからだ。チマチマした小市民的な大衆には、小林秀雄マルクスも理解できない。小林秀雄マルクスの思考は、命懸けの思考、大ギャンブラーの「 命懸けの思考 」だからだ。