山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

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「新潮45」を廃刊に追い込んだLGBT騒動について。エセ左翼=高橋源一郎の火事場泥棒的言説に異議あり。( 続く)

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新潮45」を廃刊に追い込んだLGBT騒動について。エセ左翼=高橋源一郎 小林よしのり等の火事場泥棒的言説に異議あり

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私は、エセ保守も嫌いだが、エセ左翼も嫌いだ。「新潮45」を休刊=廃刊に追い込んだLGBT騒動だが、私は、「LGBTは生産性がない」と非難したエセ保守(杉田某氏、小川某氏・・・ )を肯定するつもりも、擁護するつもりもないが、「新潮45」を廃刊に追い込んだエセ左翼の全体主義的な、バッシング的な言動にも反対である。私は、ここ十数年、『 保守論壇亡国論』や『曽野綾子大批判』、『ネット右翼亡国論』、そして近著の『 エセ保守が日本を滅ぼす』などを通じて、一貫して、保守論壇保守系文化人の言動を批判してきたが、そうだからと言って、付和雷同する左翼論壇や左翼文化人たちの「 全員一致のファシズム」的言動を擁護してきた訳ではない。今回のLGBT騒動についても、同じである。私は、杉田某氏のように、「 LGBTは生産性がない 」などと公言するつもりはないが、この言葉が、左翼文化人等が大騒ぎするほど、そんなに大幅に間違っているとも思わない。私は、暇つぶしも兼ねて、テレビをよく見るが、そこにはレズやゲイと思しきタレントやその予備軍が溢れている。エセ=レズやエセ=ゲイも多数、紛れ込んでいるはずだと推察する。要するに、テレビを中心とするマスコミが、「レズやゲイ」を記号化し、過剰にチヤホヤしすぎているのであろう。それに便乗し、素朴に騒いで 、《「新潮45」廃刊事件》にまで騒動を拡大しているのが、左翼論壇や左翼文化人である。高橋源一郎小林よしのり中沢けいなど。高橋源一郎は、月刊文芸誌「新潮」次号でこの《「新潮45」廃刊事件》を、エセ保守批判( 「 文芸評論家小川榮太郎の全著作を読んで、おれは泣いた 」)という観点から論じるのだそうである。高橋源一郎は、今までに、エセ保守批判を名指しで展開したことがあったのだろうか。形勢有利と見て、マスコミのバッシング報道に便乗しようとしているのか。なるほど。それが時代の趨勢かもしれが、そいう軽薄な言動が、私個人は、あまり好きではない。明らかに健全ではない。この不健全な風景は、最近、顕著になりつつある「日本の衰退」を象徴しているようにも見える。少し、話は変わるが、デカルトの近代哲学( ボン・サンスの哲学 )とともに、理性の帝国が出現し、狂気が闇の世界に押し込められ、抑圧 、隠蔽されるようになった。しかし、そのデカルト的理性中心主義も、ミシェル・フーコーデカルト批判の出現、いわゆる『狂気の歴史 』などの登場で、流れが大きく変わる。狂気の復権である。「狂人」は監獄や病院から解放され、野に放たれた。同じようなことが、LGBT騒動にも言えるのかもしれない。だから、私は、LGBTを闇の世界に閉じ込めよとか、抑圧、隠蔽せよ、と言うつもりはない。レズやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー・・・というような人々が、一般市民と同様に存在することに異論はない。しかし、「しかし」である。しかし、それを、「全員一致のファシズム的言説 」でもって、過剰に擁護し、過剰に推奨、賛美するかのような風潮には違和感を持つ。ちなみに、ミシェル・フーコーも「 ゲイ」であった。しかも 、「エイズ 」で死んだとか言われている。フーコーが、「ゲイ 」であることにいかに苦しんだか、そして自殺未遂を繰り返し、悪戦苦闘の末に、ようやく、いわゆる「フーコー哲学」を生み出したかを考えると、恐ろしくなる。実は、私は、学生時代、フーコーの講演を、三田( 慶應義塾大学)の階段教室で聴いたことがある。講演の詳細はすべて忘れたが、はじめてフランスの哲学者を目前にして知的興奮を禁じえなかったことを記憶している。「よし 、俺もフーコーのような哲学者になるぞ!」と。50年前のことである。その頃は、まだフーコーが「 ゲイ」だとは知らなかった。( 続く)