山崎行太郎(哲学者、文芸評論家)-Blog『毒蛇山荘日記』

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( 続6)「新潮45」を廃刊に追い込んだLGBT騒動について。「『新潮45』廃刊事件」が、何故、「杉田=小川バッシング」にすり替えられたのか?、「一億総バッシング社会化」こそ、現代日本の病巣ではないのか?( 続く)

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( 続6)「新潮45」を廃刊に追い込んだLGBT騒動について。「『新潮45』廃刊事件」が、何故、「杉田=小川バッシング」にすり替えられたのか?、「一億総バッシング社会化」こそ、現代日本の病巣ではないのか?

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「『新潮45』廃刊事件」が、執筆者個人の言語表現の差別問題に矮小化され、特定の個人個人へのバッシング騒動へすり替えられようとしている。「新潮45」誌上で、かなり、きわどい文章表現をした杉田氏や小川氏への批判は、当然であろう。私は、別にそれほど問題だとは思わないが、差別表現の是非をめぐって、議論や論争が沸き起こるのは当然である。しかし、時代や流行に、あるいはエセ左翼やエセ左翼政党の抗議と圧力に屈し、さらにそれらに迎合した上で、編集方針を切り替えたかに見える「新潮45」編集部の編集方針の問題や 、休刊=廃刊を決定して、肝心の問題から逃げた「新潮社」自体の問題は、何処へ行ったのか。そこには、何も問題はないのか? 高橋源一郎は、「自称=文芸評論家=小川榮太郎」( ? )の文章を、「 便所の落書き」だと言ったとか言わなかったとか。高橋源一郎のように、「『新潮45』廃刊事件」を、執筆者個人の問題=スキャンダルにすり替えようとする人は、左翼、右翼を問わず、少なくない。「週刊文春」最新号が、「小川榮太郎スキャンダル 」を大きく取り上げ、一億総動員のファシズム的バッシングを煽っているようだが、その「 一億総動員のファシズム的バッシング 報道」こそ、肝心の根本問題からの逃避であり、根本問題の隠蔽だろう。「小川榮太郎」の文章が「便所の落書き」なら、「小川榮太郎 」にわざわざ原稿依頼し、その原稿を、恭しく目玉原稿として掲載した「新潮45」は、「便所の落書き雑誌 」でしかないのではないか。一方、小林よしのりは、一連の騒動の原因は「読者の劣化」だと言っているらしい。小林よしのりのような劣化したエセ漫画家が、論壇のオピニヨンリーダーを演じていれば、そりや、読者は劣化するだろう。読者の劣化は、思想家、学者、知識人、ジャーナリスト等の思想的劣化=ネットウヨ化=ネット左翼化という「原因」がもたらした「結果」に過ぎない。小林よしのりは、三流漫画家らしく「原因と結果」を混同しているに過ぎない。いずれにしろ、私には、異論がある。「新潮45」も「新潮社」も、被害者ではない。確信犯である。「 チョットした校正ミス 」や「チョットした不注意」ですまされるような問題ではないだろう。「新潮45」も「新潮社」も、「ネットウヨ雑誌化 」、あるいは「ネットウヨ出版社化 」を、社長承認のもとに、目指したのではないか。『正論』、『WILL』、『HANADA』の「自称保守雑誌三巨頭」の、表層的な「 成功」(笑)に幻惑されて、それを模倣、追従しようとしたのではないか。そもそも、『正論』、『WILL』、『HANADA』というようなネットウヨ雑誌を、ここまで、のさぼらっせたのは、誰か? 出版社や出版ジャーナリズム、マスコミ、マスコミに巣食うエセ文化人自体ではないのか?彼等は、これまで黙認してきたのではないか?高橋源一郎小林よしのりは、ネットウヨネット右翼を正面から批判したり、論破するどころか適当に妥協し、むしろ迎合して来たのではないか。今や、左派、右派を問わず、出版界全体、マスコミ全体が「 エセ保守論壇化 」=「ネット右翼雑誌化 」しているのではないのか。左翼系も大して変わらない。左翼も「ネット左翼化」し、論争や言論闘争から逃げている。つまり今や、テレビや新聞に限らず、週刊誌や月刊誌まで、骨抜きになり、権力迎合、体制迎合の「御用マスコミ化 」しているのではないのか。それらのマスコミ全体の「御用マスコミ化」という根本的問題を隠蔽し、頬かむりした上で、個人のスキャンダルに矮小化し 、御用マスコミが主導し、大衆を総動員した「 一億総バッシング 」という大衆演劇を繰り広げようとしているのだと言っていいだろう。 ( 続く)