文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

深夜の「毒蛇山荘」でマルクスの『資本論』を読む( 2 ) ■昼間は、「毒蛇山荘」の雑木林の手入れに忙しいが、それも気分次第で 、やりたい時にやるだけで、気楽なものだ。もちろん、やりたくない時は一日中寝ていたり、ある時は、昼間から近くの温泉で汗を流し 、ビールを飲んでいたりする。だが 、夜になると、何故だか、急に目が冴えてくる。無性に、誰も読まないような、難しい本を読みたくなる。戦闘モードに突入するのだ。中島敦の小説ではないが


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深夜の「毒蛇山荘」でマルクスの『資本論』を読む( 2 )ー等価交換と不等価交換ー
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昼間は、「毒蛇山荘」の雑木林の手入れに忙しいが、それも気分次第で 、やりたい時にやるだけで、気楽なものだ。もちろん、やりたくない時は一日中寝ていたり、ある時は、昼間から近くの温泉で汗を流し 、ビールを飲んでいたりする。だが 、夜になると、何故だか、急に目と頭が冴えてくる。むろん、昼間、寝ていたからだが(笑)。そんな時、無性に、誰も読まないような、難しい本を読みたくなる。戦闘モードに突入するのだ。中島敦の小説ではないが、虎に変身するのだ。マルクスの『資本論』が難しい本かどうか意見の分かれるところだが、そんなに優しい、わかりやすい本ではないことは確かだろう。東京の何処かの大学の図書館で読むのではなく、薩摩半島の山奥の限界集落の廃屋で 、『資本論』を読む。これが、なんとも素晴らしい。分かったか! この野郎! と思わず 叫び、勝利宣言をしたくなる。こんな馬鹿が、一人ぐらいは、いてもいいだろう、と。さて、マルクスは、冒頭の商品論で、商品Aと商品B、商品C・・・を比較する。一種の物々交換の世界である。商品A1gと商品B3gを交換したとする。この交換は、等価交換なのか不等価交換なのか。マルクスに言わせると、どちらでもない。等価交換や不等価交換がいえるためには、「 等価交換 」が前提になっている。「等価交換 」という前提がないところでは、等価交換も不等価交換もありえないのだ。つまり、交換が成立したいということが、 結果的に等価交換だということになる。等価だから交換が成立したのではない。交換が成立したから等価ということになるのだ。しかしマルクスは、各商品に共通する本質があるのではないか、あるとすれば、どの共通の本質は何か、と考えているフシがある。共通する本質は何か。労働である。つまり労働時間である。「 抽象的な人間労働」の時間。マルクスは言う。《こうして、使用価値あるいは財貨が価値をもつのは、抽象的な人間労働がそこに体現または具体化されているからでしかないのである。では、その価値の大きさ、どのようにして測られるのか? そこに含まれている「 価値を形成 する実体」の 、労働の、量によってである。労働の量そのものは、その時間の長さで測られ、そして労働時間はさらに、時間、日、等々といった一定の時間区分をその尺度標準とする。》 これは、明らかに古典経済学の労働時間説である。ここのところで、マルクスは、労働時間説という実体論的思考に陥っているように見える。しかし、マルクス資本論』の本質はここにはない。柄谷行人が強調するような価値形態論にある。《あらゆる価値形態の秘密は、この単純な価値形態に潜んでいる。だから単純な価値形態の分析は、実にむずかしい。》 つまり、各商品は 、等価であれ不等価であれ、それぞれ、無秩序に、相互に交換されるのだ。各商品に共通の本質などないということだ。そこには不自由や拘束や危険性、あるいは暴力が伴うにせよ、生き生きとした喜びみも伴うのだ。商品と商品が直接的にぶつかりあう世界だ。このアナキーな世界が、価値形態( 論 )の世界である。この不自由や拘束を克服するために、そこに、一商品に過ぎなかった貨幣( 金銀 )が、共通の尺度として登場する。貨幣が、各商品の上位に君臨する。そして、貨幣が価値形態を隠蔽する。つまり、貨幣の登場で、商品と商品の直接的関係性は失われ、貨幣を媒介にしての間接的関係性のなかに組み込まれていく。これが、資本制社会である。商品は貨幣によって売買(交換 )されるから「 商品」なのである。売買( 交換 )されない商品は 「 商品 」ではない。資本制社会とは、商品によって成り立つ社会である。マルクスが『資本論』の冒頭で、《資本主義的生産様式を支配している社会の富は、「膨大な商品の集積 」としてあらわれ、個々の商品は、その富の基本形態としてあらわれる。だからわれわれの研究は、商品の分析からはじまる。》というのはそういうことである。労働生産物が商品化されることによって資本主義は始まり 、資本主義社会の到来とともに商品を中心とする社会が始まる 、と言うことが出来ると私も思う。より具体的に言えば 宇野弘蔵のいう「 労働力の商品化」という問題である。労働者が「労働 力」を「商品 」として売るようになった時、資本主義社会は始まる。わかるか? マルクス主義者気取りの馬鹿学生よ、 あるいは馬鹿学者よ。何が疎外だの搾取だの剰余価値だよ。まず、商品論、価値論、貨幣論だろうが。そこにはイデオロギー的思考はない。原理論的、あるいは存在論的思考しかないと言っていい。マルクスは、資本主義社会の本質を冷徹に分析しただけである。それが、『資本論』である。倫理や道徳や正義を論じた書ではない。私は、何故か判らないが、昔から、倫理や道徳や正義・・・が大嫌いだった。マルクスは、「 唯物史観」という言葉も、「弁証法唯物論」という言葉も、一度も使っていないということを、最近、初めて知った。その頃から、私は、マルクスを身近に感じるようになった。小林秀雄を読むようにマルクスを読む。小林秀雄マルクスは、決して別のことを言っているのではない。私にとっては、小林秀雄マルクスであり、マルクス小林秀雄である。
( 続く)

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本稿は最終稿=完成稿ではありません。今後も加筆修正を繰りお返していきます。最終稿は、メールマガジン山崎行太郎の毒蛇通信』でお読みください。
http://www.mag2.com/m/0001151310.html
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( 続く)