文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

深夜の「毒蛇山荘」でマルクスの『資本論』を読む(4)ー労働時間説から価値形態論へ■ 私が生まれ育った「 旧勝目村」( 現=南九州市)には、大谷川という小さな川が流れている。言い換えれば、大谷川という谷川に沿って、つまり上流から下流にかけて、村が細長く広がっている。国道225号線も川沿いに伸びている。その小さい谷川だが、台風シーズンや大雨の時には、川は氾濫し、暴れ川に変貌する。私は、小学校時代は、大雨や台風で洪水になり、川が氾

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深夜の「毒蛇山荘」でマルクスの『資本論』を読む(4)ー労働時間説から価値形態論へー
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私が生まれ育った「 旧勝目村」( 現=南九州市)には、大谷川という小さな川が流れている。言い換えれば、大谷川という谷川に沿って、つまり上流から下流にかけて、村が細長く広がっている。国道225号線も川沿いに伸びている。その小さい谷川だが、台風シーズンや大雨の時には、川は氾濫し、暴れ川に変貌する。私は、小学校時代は、大雨や台風で洪水になり、川が氾濫することを、密かに楽しみにしていたものである。堤防が崩れたりすると、大量の水が田畑に流れ込み、同時に魚も流れ込む。その田畑や下水に流れ込んだ魚を追い回し、手では掴み取る。それが楽しみだった。その後、河川工事が始まるが、それも楽しみだった。芥川龍之介に『トロッコ 』という作品がある。私がトロッコというものを初めて見たのは、私の家(「毒蛇山荘」 )の近くで行われていた河川工事の現場だった。芥川の『 トロッコ 』を読むと、私は、小学生の頃に見た「 あのトロッコ」を懐かしく思い出す。夕暮れ時のトロッコ。暗くなると、工事現場に放置されているトロッコを、無断で、勝手に動かして遊んだものであった。先日、帰郷のおり、国道沿いのウオーキングコースを散歩していると、珍しく河川工事がおこなわれていた 。今の河川工事の現場には、もうトロッコはなく、大きなショベルカーが激しく動いているだけだ。川が氾濫しないように、川幅を拡張しているらしい。そこは、昔は 、人里離れた、怖いところだったが、工事が終わったら、水辺公園にでもなりそうだ。魚釣りや川遊びが出来るぞと思うと、なんだか久しぶりに 、子供の頃に帰ったようで、愉快な気分になった。ところで、田舎の話はこれくらいにして、『深夜の「毒蛇山荘」でマルクス資本論』を読む 』を続けよう。古典経済学からマルクス経済学へ。ここには大きな断絶と変革があると思われている。特にマルクス主義者やマルクス経済学者はそう思っているに違いない。しかし、何処がどう違うのかを考えると、必ずしも明確ではない。マルクスエンゲルスの共著『 ドイツ・イデオロギー』あたりで、マルクス等は、唯物史観弁証法唯物論を確立したのではないか、というのが一般的な定説である。廣松渉アルチュセール。しかし、柄谷行人は、マルクスマルクスたる所以は、つまりマルクスの新しさは、『資本論』の中の価値形態論にあり、それ以前のマルクスは、古典経済学の亜流でしかなかったと言う。つまり、マルクスは『資本論』において労働時間説から価値形態論へ、思考転換していると考えている。『資本論』の新しさは、価値形態論にあるというわけである。価値形態論とは何か。価値形態を分かりやすく説明するためには、貨幣、あるいは貨幣形態や貨幣の形而上学と比較するとよい。つまり、貨幣が誕生すると、価値形態は、隠蔽される。価値形態という現実は、貨幣形態に覆い隠される。つまり、貨幣が登場することによって、価値形態を直視しなくなるということである。マルクスは資本制社会は、無数の「 商品」から成り立っているという。商品は交換されるから商品になる。商品Aと商品B、あるいは商品Cや商品D・・・。それぞれ交換される。一種の物々交換の世界である。貨幣が誕生する以前は、どうだったのだろうか? 商品と商品が直接的にぶつかりあう物々交換の世界であったと考えられる。もし、共通の尺度としての貨幣(金 )が存在しなければ、各商品の価値が確定されず、商品の交換は、面倒になっていただろう。この面倒な商品の在り方が、商品形態であり、価値形態である。価値形態の特徴は、実体論的ではないことである。つまり、各商品は、それぞれの価値が確定されておらず、相対的、関係論的な相互関係にあるということである。この、ある意味で、アナキーな商品世界が、貨幣の登場によって整理され、秩序化され、数量化される。われわれは、物や商品に、それぞれ実体的価値があるという実体論的思考に慣れている。労働時間説とは実体論的思考の一つである。労働時間説によると、商品Aの価値は、その商品を作るのに費やされた労働時間の量で決まる。この場合、貨幣は、商品Aや商品Bの価値を表す記号に過ぎない。商品の交換は、貨幣によって、スムーズに行われる。労働時間説はマルクスの発見したものではなく、イギリス古典経済学において、既に、発見されていた。マルクスの『資本論』には、労働時間説と価値形態論が併存している。

( 続く)

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本稿は最終稿=完成稿ではありません。今後も加筆修正を繰りお返していきます。最終稿は、メールマガジン山崎行太郎の毒蛇通信』でお読みください。
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