文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

西郷南洲とモーゼ。(3) ■西郷南洲は、延岡の児玉邸の庭で陸軍大将の軍服を焼却した時点で、人間として死滅し 、「 神」ないしは 神の言葉を預かる「 預言者」となった。上野の山の西郷南洲像は、糸夫人が「 似ていない」とか言ったらしいが、それは、「 神 」ないしは「 預言者 」となって以後の西郷南洲だったからではないか。( 続く)

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西郷南洲とモーゼ。(3)
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西郷南洲は、延岡の児玉邸の庭で陸軍大将の軍服を焼却した時点で、人間として死滅し 、「 神」ないしは 神の言葉を預かる「 預言者」となった。上野の山の西郷南洲像は、糸夫人が「 似ていない」とか言ったらしいが、それは、「 神 」ないしは「 預言者 」となって以後の西郷南洲だったからではないか。鹿児島市内にある西郷南洲像が軍服姿なのは、それが「 人間 」としての西郷南洲を表しているからだろう。上野の西郷南洲像が、日本国民に敬われ、親しまれ、愛されている・・・のに対して、鹿児島市内の立派な軍服姿の西郷南洲像が、ただそこにあるというだけで、ほとんど問題にならないのは、当然だろう。人間は、元来、定住する存在ではなく、放浪、遊動する存在であったと柄谷行人は、『世界史の構造』や『遊 動論』で言っている。日本の文学の原点にも、西行芭蕉山頭火・・・というように放浪、遊行する文学という伝統があるように、文学や芸術は、定住や日常性を否定する要素を持っている。モーゼも、彷徨と遊行、遊動・・・する存在であった。モーゼだけではない。イエス・キリスト孔子も、ブッダソクラテスも、古代の聖人たちは、いずれも彷徨と遊行、遊動・・・する存在であった。言うまでもなく、西郷南洲もまた、彷徨と遊行、遊動・・・する存在であった。上野の山の西郷南洲は、彷徨と遊行、遊動・・・する存在としての西郷イメージを象徴している。西郷像の彫刻家・高村光雲には、東京での名誉ある地位と豪華な生活を、ボロ屑のように脱ぎ捨てて、着の身着のままの粗末な姿で、南九州の山野を彷徨=放浪=遊行する西郷南洲の姿が、見えていたのだろう。さすが高村光雲である、と思う。

( 続く)






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本稿は最終稿=完成稿ではありません。今後も加筆修正を繰りお返していきます。最終稿は、メールマガジン山崎行太郎の毒蛇通信』でお読みください。
http://www.mag2.com/m/0001151310.html
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