文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

西郷と流刑時代( 2 )■西郷は無学だったとか、無教養だったというような俗説が、司馬遼太郎等の独断と偏見を盲信する一般大衆の一部によって、未だに主張されてるようだが、まったくの俗論であり、妄言である。西郷南洲は、今の言葉で言うと「地頭 」のいい天才的頭脳の持ち主だった。司馬遼太郎のようなチャンバラ小説家や三流の歴史学者のような俗物的合理主義者には、それが見えなかっただけだろう。

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西郷と流刑時代( 2 )■西郷は無学だったとか、無教養だったというような俗説が、司馬遼太郎等の独断と偏見を盲信する一般大衆の一部によって、未だに主張されてるようだが、まったくの俗論であり、妄言である。西郷南洲は、今の言葉で言うと「地頭 」のいい天才的頭脳の持ち主だった。司馬遼太郎のようなチャンバラ小説家や三流の歴史学者のような俗物的合理主義者には、それが見えなかっただけだろう。
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西郷は、藩主・島津斉彬に登用されて、上京するわけだが、上京後、西郷が最初に取り組んだ仕事は、水戸藩の学者・藤田東湖福井藩橋本左内等との交流であった。当時、藤田東湖橋本左内も目も眩むような、超一流の学者だった。西郷が、学問も教養もない「 ウドのタイボク 」(司馬遼太郎 )だったら、たとえ島津斉彬の使者だったとしても、藤田東湖橋本左内等と対等に交際でき、彼等の信頼をかちうるはずがない。その後、西郷は、安政の大獄で、江戸を追われ、島流しの時代、つまり流刑時代を迎えるわけだが、実は、西郷の流刑時代は、学問と修養の時代でもあった。奄美大島時代、西郷が、もっとも頻繁に交流したのは、重野安繹(しげの=やすつぐ )だったが、重野安繹は、後の東大国史学科の教授となり、「近代実証史学 」を打ち立てた頭脳明晰な青年であった。重野安繹は、薩摩藩随一の秀才で、若くして昌平黌に学び、昌平黌の舎監のような仕事をしていたが、不祥事を起こし、西郷より前から奄美大島に、罪人として島流しの身だった。重野安繹は後に大久保利通系の人物として活躍し、西郷には批判的な、辛辣な証言も残しているが、しかし、奄美大島時代に、二人が頻繁に交遊し、夜を徹して、漢籍漢詩を学び、学問や政治、思想を巡って激論を闘わせたという事実は重要である。西郷が、学問嫌いの「ウドのタイボク 」( 司馬遼太郎)だったら、重野安繹との交流が長く続くはずがない。これは、奄美大島時代だけではない。沖永良部時代にも、西郷は、川口 雪篷という学者と交流し、川口の指導で、漢詩を作るようになったという。川口は、書家としても知られているが、西郷に書の書き方を指導したのも川口 雪篷である。川口とは 、お互いに意気投合したらしく、後に川口は西郷家に住み込み、西郷亡き後は、西郷家留守居役として西郷の遺児たちの教育まで担当し、西郷家を支え続けたという。要するに、重野安繹にしろ川口 雪篷にしろ、西郷南洲が、学がないとか、教養がないとか、知的能力が劣っている、とは考えていなかったということだ。流刑時代の西郷南洲を、「愛加那 」とのラブロマンスを中心に描く通俗大衆作家・林真理子のメロドラマ( NHK大河ドラマ )が、受けないのは当然だろう。西郷にとって愛加那とのラブロマンスは、島流し時代の一部でしかない。西郷自身も自覚していただろう。西郷は、その後、薩摩藩の武士として、「いと」という女性と正式に再婚している。愛加那は、所詮、奄美大島での「 現地妻」でしかなかったのだ。


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