文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

西郷と流刑時代(3)■西郷は、奄美大島に流されても身分は、罪人ではなく、元のままだった。だから、奄美大島の住民たちとの間には大きな距離があった。しかし、時間が経つに従って、持ち前の「正義感」から、薩摩藩の過酷な民衆支配、冷酷な搾取支配の実態を知るに及んで、薩摩藩の現地役人たちへの批判や抗議を繰り

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西郷と流刑時代(3)■西郷は、奄美大島に流されても身分は、罪人ではなく、元のままだった。だから、奄美大島の住民たちとの間には大きな距離があった。しかし、時間が経つに従って、持ち前の「正義感」から、薩摩藩の過酷な民衆支配、冷酷な搾取支配の実態を知るに及んで、薩摩藩の現地役人たちへの批判や抗議を繰り返すことになる。
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共産党員でありマルクス主義的階級史観の持ち主だった歴史学者( 京大教授 )=井上清は、この流刑時代の西郷の民衆への愛情( 民衆愛)を過大評価して、西郷南洲を絶賛しているが、その種の単純な民衆史観に、私は賛成ではない。西郷が民衆だったわけでもなく、民衆愛が西郷の中心思想だったわけでもない。西郷は下級武士出身とはいえ、薩摩藩の立派な武士である。西郷が「 民衆愛 」や「 民衆史観 」などにとらわれていたら、明治維新西南戦争も闘えるはずがない。むしろ、革命や権力闘争に「 民衆愛」は邪魔である。マルクス主義的階級史観や民衆史観の持ち主たちは 、西郷の「民衆愛 」をたかく評価しながらも、すぐ「 名分なき蜂起と民衆の悲劇 」( 都筑隆明『 西郷隆盛岩波新書)などと言って、西南戦争を最後まで戦って、戦場となった熊本や宮崎の民衆に多大な被害を及ぼした西郷南洲を批判する。民衆のことばかり考えていては、明治維新もありえない。言うまでもなく、民衆は神様ではない。歴史は民衆だけで成り立っているいるわけではない。歴史が民衆を中心に回っているわけでもない。歴史という舞台には、民衆もいるが、王様も天皇もいるし、貴族も資本家もいる。もちろん、ヤクザや暴力団も、あるいは犯罪者もいる。西郷南洲のような人物を、安っぽい「 民衆史観 」などという解釈モデルで、評価することには無理があると言うべきだろう。たしかに、西郷は、奄美大島における薩摩藩の島民への圧政や搾取の構造を厳しく批判し、島民の生活を搾取から解放すべく、精力的に活動している。しかし、同時に、西郷は、薩摩藩からの呼び戻しの召喚状が届くことを 、悶々としながら待ち望んでいる。島の娘( 愛加那 ) を妻に迎え、子供( 菊次郎、後の京都市長)までもうけていたが、召喚状が届くと、妻子は残して、単身、枕崎の鰹船で、まず枕崎港に上陸し、一泊した翌日、鹿児島へ帰還している。西郷の頭には中央政界のことしかない。帰還後の西郷は、大久保利通島津久光などとの情報交換や戦略立案に忙しく立ち回る。西郷が、この時点で、帰還できたのは、「 島津久光の上洛 」という大問題が持ち上がっており、その問題を上手く処理出来る人間は、西郷以外にいなかったからだ。というわけで、帰還後の西郷の頭の中には奄美大島の民衆などない。さて、枕崎は、私の本籍地である。ああ、あの枕崎港に、西郷は、島流しから帰還した時 、最初に立ち寄ったのかと思うと、感無量だ。西郷と私が繋がったかのように思う。

( 続く)

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