文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

西郷と流刑時代( 4 ) ■西郷の流刑時代の日本の政治は大きく動いていた。「桜田門外の変」で、「 安政の大獄 」を主導していた大老・井伊直弼が暗殺され、徳川幕府の屋台骨がぐらつき始め、その後には島津久光の策謀で「寺田屋事件 」が起き、西郷の仲間でもあった薩摩藩の勤王派浪士たちが虐殺される。さらに「 生麦事件 」「薩英戦争」。西郷のところにも情報は次々と届いたが、西郷は蚊帳の外に置かれていた。 西郷南洲の問題を考える時、島津斉彬亡き後の薩摩藩の実質的なリーダー「島津久光」との関係は、極めて重要である。つま

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西郷と流刑時代( 4 )
■西郷の流刑時代の日本の政治は大きく動いていた。「桜田門外の変」で、「 安政の大獄 」を主導していた大老井伊直弼が暗殺され、徳川幕府の屋台骨がぐらつき始め、その後には島津久光の策謀で「寺田屋事件 」が起き、西郷の仲間でもあった薩摩藩の勤王派浪士たちが虐殺される。さらに「 生麦事件 」「薩英戦争」。西郷のところにも情報は次々と届いたが、西郷は蚊帳の外に置かれていた。

西郷南洲の問題を考える時、島津斉彬亡き後の薩摩藩の実質的なリーダー「島津久光」との関係は、極めて重要である。つまり、島津斉彬亡き後、西郷の運命は激変するからだ。島津久光西郷隆盛は、お互いに警戒しつつ、嫌悪し、憎悪し合う関係だった。京都の僧・月照との入水心中事件も、奄美大島幽閉事件も、二回目の徳之島・沖永良部流刑事件も、いづれも、島津久光との「関係 」が引き起こしたものだった。しかし、見方を変えれば、西郷が、血腥い波乱万丈のテロと弾圧の時代を、無傷で生き延びられたのは、島流し時代があったからだとも言える。おそらく、島津斉彬時代のように中央政界で活躍していたら、生き延びることは不可能だったかもしれない。その島津久光の信頼を勝ち得て、その片腕として活躍していたのが大久保利通だった。西郷と大久保は「 幼馴染 み」であり「 親友 」だったというのが定説だが、私は、その説に懐疑的だ。私は、西郷と大久保の関係は、もっと微妙なものだったと思う。島津斉彬時代は、西郷と大久保の間には大きな隔たりがあった。東大卒の超エリートと地方大卒の田舎のエリート。しかし、島津久光時代になって立場は逆転する。大久保jは島津久光の側近中の側近、西郷は島流し。ともあれ、征韓論から西南戦争にいたる大久保利通の言動を見ていると、大久保の中に「 西郷コンプレックス」とでも言うべき複雑な感情があったのではないかと私は思う。大久保は「小細工」の出来る秀才ではあったが、「大事」は苦手だった。大久保は、行き詰まると、その度に、西郷を呼び、西郷の力と人望を借りなければならなかった。田舎暮らしの長かった島津久光大久保利通が、島津斉彬西郷南洲のように中央政界で活躍しようとしても、人脈も政治能力もない二人には無理だった。中央政界工作は、西郷に頼らざるを得なかった。西郷が、奄美大島から呼び戻されたのは、「 島津久光の上洛」という政界工作が、暗唱に乗り上げていたからである。大久保は、島津久光の依頼を受けて、中央政界工作のために上京したが、なんの成果もあげられなかった。大久保が、薩摩y藩外に出たのは、それが初めてだった。大久保は 、自分の無力を自覚したはずである。それを見ていた精忠組の若い薩摩藩士たちが、「西郷を呼び戻せ 」と騒ぎ始めたのも当然だった。大久保は、そういう空気の変化には敏感である。大久保も、「西郷召還」に動かざるを得なかった。大久保が先頭に立って、西郷を呼び戻したと言われているが、間違いである。

( 続く)

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