文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

■島津久光と小松帯刀と大久保利通( 5) 【山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】 西郷と月照を入水自殺へ追いこんだのは、島津久光ではなかった。薩摩藩の島津斉彬時代の家老で、島津斉彬亡き後も、政治的実権を握っていた島津豊後一派の島津久宝( ひさたか )であった。島津斉彬は、藩主継承後も、お由羅騒動以来の内紛の再発を恐れて、父=島津斉興の腹心・島津豊後一派( 島津久宝)を続投させていた。島津斉彬が急死すると、島津斉興が力を盛り返し、筆頭家老だった島津斉彬の腹心=島津久徴(ひさなが )を引きずり下ろした

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島津久光小松帯刀大久保利通( 5)
山崎行太郎『南洲伝 』断片的草稿より】

西郷と月照を入水自殺へ追いこんだのは、島津久光ではなかった。薩摩藩島津斉彬時代の家老で、島津斉彬亡き後も、政治的実権を握っていた島津豊後一派の島津久宝( ひさたか )であった。島津斉彬は、藩主継承後も、お由羅騒動以来の内紛の再発を恐れて、父=島津斉興の腹心・島津豊後一派( 島津久宝)を続投させていた。島津斉彬が急死すると、島津斉興が力を盛り返し、筆頭家老だった島津斉彬の腹心=島津久徴(ひさなが )を引きずり下ろした。そして、島津斉興の援護もあって 、島津豊後一派の島津久宝が、再び、島津斉彬の急死とともに、薩摩藩の実権を奪い返した。ちょうどその頃、西郷と月照が、薩摩藩の庇護を求めて、逃げ込んで来たのだった。しかし、島津豊後一派( 島津久宝)は、幕府の怒りを恐れて、冷たく突き放し、月照の国外追放( 日向送り=死 )を決定した。そこで、京都からの逃亡に協力し、月照を鹿児島で匿っていた 西郷は、月照一人を死なせるわけには行かず、月照とともに死ぬことを決意する。錦江湾に飛び込み、入水自殺することになったというわけだ。島津斉興が死ぬと、島津久光が実権を掌握し、島津豊後一派( 島津久宝)は追放される。不思議なことに、島津久光は、自分を次期藩主にしようと画策し、藩内を二分するお由羅騒動仕掛人だった一人の張本人を、追放したことになる。しかも、島津久宝( 豊後派 )に変えて 、島津斉彬時代の家老=島津久徴(ひさなが、日置派)に戻している。明らかに島津久光が、島津斉彬側に立っていたことが分かる。これらの政変劇を見ていると、島津久光は、異母兄=島津斉彬と対立していたわけではなく、むしろ、島津斉彬の遺志を受け継ぎ、島津斉彬の政治を再現=実現しようとしていたことが分かる。島津斉彬も、実は、弟の島津久光の才能と学識を高く買っていた 。「 薩摩藩には人材がいない。しかし、一人だけいる。それは私の弟の島津久光だ」と言っていたという話もある。斉彬と久光との間には、兄弟らしい親密な交流もあった。島津久光は、兄の斉彬に敬服していたし、兄の斉彬も「 弟は、私以上に学問を極めている」とも話していた。島津久光を、「頑迷な封建主義者」と見て、「愚将だった 」と批判、罵倒する司馬遼太郎的な「歴史の見方」は間違いだと分かる。西郷と島津久光は、お互いは理解していなかったかもしれないが、二人とも、「島津斉彬の政治」を受け継ぎ、それを実現しようとしていたという意味では、政治的同士だったのである。残念ながら、自分を引き揚げてくれた島津斉彬に傾倒するあまり、お由羅騒動や後継藩主選びの内紛などが影響したのか、西郷には、それが見えなかった。『 島津久光』(講談社メチエ )の著者・町田明広は、「大久保も西郷も、島津久光なくしては、『 一介の下級藩士 』か、島津斉彬の『 一寵臣』で終わっただろう。 」と書いている。あながち、的外れではないだろう。我々は、単純素朴な西郷や大久保中心の「英雄伝説史観」や、司馬遼太郎的な通俗的な「歴史漫談小説史観」に洗脳されて、歴史の実相が見えなくなっている。小松帯刀もそうだが、小松帯刀以上に、島津久光は、不等に低評価され、ある場合には、典型的な「悪役」と見なされている。私自身も、長い間、そういうふうに洗脳された一人だった。





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