文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

●「桐野利秋」抜きに西郷は語れない(3)。 ( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より ) ● 司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』は、桐野利秋の故郷・吉野村の描写から始まる。そして、「 君たちはえたいが知れない」と。「その吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家のあとを訪ねたとき、正直なところそう思った 」と。その次のページには、パリの街を闊歩する川路利良( かわじ・としなが )。野蛮と文明。 鹿児島の片田舎の農村地帯とパリの市街

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桐野利秋」抜きに西郷は語れない(3)。
( 『 小説・南洲伝』断片的 草稿より )
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司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』は、桐野利秋の故郷・吉野村の描写から始まる。そして、「 君たちはえたいが知れない」と。「その吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家のあとを訪ねたとき、正直なところそう思った 」と。その次のページには、パリの街を闊歩する川路利良( かわじ・としなが )。野蛮と文明。 鹿児島の片田舎の農村地帯とパリの市街。そして結末は、文明が野蛮を駆逐する。分かりやすい展開である。私は、吉野村ではないが、吉野村よりもはるかに辺境の鹿児島の薩摩半島の山奥の小さな村の出身なので、この小説の書き出しは、胸に響く。しかし、桐野利秋は、そんなことを気にしていなかった。常に「おおらか」であった。鹿児島でも京都でも、そして東京(江戸 )でも 、桐野は、一貫して、自信満々で、颯爽としていた。桐野は、東京では、上野不忍池の西側、湯島切通坂と無縁坂に挟まれた元高田藩中屋敷に住んでいた。桐野を知る老人の話が伝わっている。

《桐野が湯島に住んでいた頃、白縮緬兵児帯に浴衣をまとい、団扇を手にし、美人を携えつつ晩涼を追って、不忍池畔を歩くのを見た。実に身材堂々たる一個の好丈夫しかも容貌閑雅、眉目清秀、当時粗野をもって都人に笑われたる西国武士には似ざりき、と。桐野は元来短髪敝衣質素に自ら甘んずる無骨軍人にあらず。むしろ瀟洒風流を喜ぶ香水紳士なり》

西郷が、征韓論騒動で下野し、鹿児島に引き上げると同時に、桐野も即座に、西郷を追った 。桐野は、地位や名誉や、勝ち組としての豪奢な生活に、無頓着だった。西郷と同様に、世俗的なものにこだわらなかった。このことからも分かるように、桐野は、京都で、沖永良部島から帰還した西郷に抜擢されて、長州問題に参加するようになって以来、一貫して、西郷の政治活動の片腕として行動していたのだ。西郷が桐野利秋という人間を信頼していただけでなく、桐野の西郷に対する信頼もまた桁違いだった。その信頼は、宗教的な信仰に近いものがあった。桐野に、有名な言葉がある。

《自分は死ぬべき場所に死ぬことのできん奴だ。自分を死ぬべき場所に死なせてくれる人は南洲翁( 西郷)だ。そのため一生離れることはできん》。

桐野は、お世辞でそう言っているのではない。桐野は、それを実践したのだ。桐野利秋が、自分の人生を、つまり生と死を、西郷に預けたよぅに、西郷も桐野利秋に、人生を預けたのだ。大久保や、弟の西郷従道、従兄弟の大山巌吉井友実、川村純義・・・等は、桐野利秋ほどには、西郷という人格を理解していなかった。彼等はは、上昇志向型の俗物だった。西郷も桐野も、そういう俗物を嫌悪していた。「南洲墓地」で、西郷のまわりに眠っている桐野利秋村田新八別府晋介、そして無名の少年兵士たちだけが、西郷という人格と精神を理解し、共有していたのだ。大久保利通は、西郷に遅れること一年後に石川藩士・島田七郎に虐殺され、そして川路利良は二年後に病死している。「 神殺し」の下手人として死んだのであろう。大久保利通川路利良も、南洲墓地に眠るることはできない。どんなに西郷の「竹馬の友」であろうとも、住む世界も、死後の世界も異なる。