文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

■何故、『南洲伝』を書き始めたのか?■五月から桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(3) ( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。) ============= ==== あらためて確認するが、私が、『小説=南洲伝』を書こうと思いたったのは、江藤淳の『南洲残影』の影響である。私は、元々、西郷隆盛があまり好きではなかった。郷土自慢的西郷隆盛論や英雄伝説的西郷隆盛論が、嫌いであった。私が、文学や哲学をやるようになったのも、そういう郷土自慢や英雄伝説的な言説、つまり日常的、世俗的言説と訣別するためだった。さらに言う

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桐野利秋の『桐陰仙譚』を読む。(3)
( 『小説・南洲伝 』断片的 草稿より。)
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あらためて確認するが、私が、『小説=南洲伝』を書こうと思いたったのは、江藤淳の『南洲残影』の影響である。私は、元々、西郷隆盛があまり好きではなかった。郷土自慢的西郷隆盛論や英雄伝説西郷隆盛論が、嫌いであった。私が、文学や哲学をやるようになったのも、そういう郷土自慢や英雄伝説的な言説、つまり日常的、世俗的言説と訣別するためだった。さらに言うと、西郷隆盛=西郷南洲そのものが嫌いだったわけではない。私が、まだ、鹿児島県の片田舎、薩摩半島の山奥の小さな小学校の生徒だった頃、運動会の仮装行列で必ず登場するのが「西郷さん 」だった。そして小学校6年の修学旅行は、一泊の鹿児島市内観光だった。その時、私は、初めて城山に登り、西郷終焉の地を踏んだ。桜島を目の前にした展望台で、西郷の洞窟や最期の場面の話を、展望台の案内役のおじさん、このおじさんは、西郷さんによく似ていたが、そのおじさんの口から聞いた。そのおじさんが語ってくれた話に、私は本当に感動したことを覚えている。「西郷さんの死」は、イエス・キリストの十字架の死のように、私の心の底深くに刻み込まれた。私は、西郷が、陸軍大将だったとか、明治維新で大活躍した英雄だったとか、そういう話にはほとんど興味がなかった。ただ、「 西郷さんの死 」だけにしか興味がなかった。展望台のおじさんは、城山で最後を迎えた西郷さんの話しかしなかった。西郷の介錯をした別府晋介の名前と、「しんどん、もうここで、よかが ・・・」という西郷さんの最期の言葉。しかし、その話を、他人と共有することは出来そうもなかったから、私は、西郷の話をしたことがなかった。だから、江藤淳の『南洲残影』を読むまでは、郷土自慢的西郷隆盛論や英雄伝説西郷隆盛論は勿論のこと、あらゆる西郷関係の言説が嫌いであった。江藤淳の西郷論『南洲残影 』は、悲惨な負け戦だった「西南戦争 」だけを描いている。西郷の輝かしい栄光の歴史である明治維新の部分は描いていない。江藤淳は、「 西郷さんの死 」だけを描いている。そこに、西郷を、「西郷隆盛 」たらしめた《 何ものか 》が、、あるいは「 西郷南洲 」たらしめた《 何ものか》があるということだろう。昨年の西郷ブームには、怒りしか感じなかった。NHK大河ドラマも、それに付和雷同した粗製濫造の西郷本も、西郷や桐野を冒涜するものでしかなかった、と私は思う。それらの多くは、福沢諭吉中江兆民内村鑑三三島由紀夫江藤淳等の西郷隆盛論とは無縁なものばかりだった。私が、『南洲伝 』を書こうとは思い始めたのは、
「何ものかへの怒り 」からだった。資料や文献を読み進めていくうちに、その「怒り 」はホンモノになっていった 。西郷が、鹿児島で蹶起した日、西郷の「何ものかへの怒り 」も、沸点に達したのであろう。欧米のキリスト教徒が、多数の『イエス伝 』を書き残しているように、私も、私の『南洲伝 』を書き残そうと思った。


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