文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

私が一番関心を持つのは、西郷が、征韓論騒動の余波で、征韓論が受け入れられないと見るや、さっさと下野し、鹿児島へ帰郷した時、公職を投げ打って、西郷の後を追った薩摩藩の同志たちである。桐野利秋、村田新八、篠原国幹・・・やその他の多くの近衛兵を主軸とする薩摩藩士たちの決断力である。彼等に迷いはなxかったのだろうか。中でも陸軍少将だった桐野利秋の即断即決の行動は、際立っている。桐野利秋は、元々、西郷とはそれほど親しい間柄ではなかった。西郷や大久保利通等は市内加治屋町の城下士だった。しかし、その加治屋町出身の仲間

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桐野利秋関係の文献や史料を読む。(2)
( 山崎行太郎『南洲伝』断片的草稿より)
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私が一番関心を持つのは、西郷が、征韓論騒動の余波で、征韓論が受け入れられないと見るや、さっさと下野し、鹿児島へ帰郷した時、公職を投げ打って、西郷の後を追った薩摩藩の同志たちである。桐野利秋村田新八篠原国幹・・・やその他の多くの近衛兵を主軸とする薩摩藩士たちの決断力である。彼等に迷いはなxかったのだろうか。中でも陸軍少将だった桐野利秋の即断即決の行動は、際立っている。桐野利秋は、元々、西郷とはそれほど親しい間柄ではなかった。西郷や大久保利通等は市内加治屋町の城下士だった。しかし、その加治屋町出身の仲間たちの多くは、結果的に西郷を裏切って、東京に残った。勝ち組としての地位や名誉、将来・・・等を考えたら、東京に残るのが当然だろう。むしろ、西郷を追って鹿児島へ向かう方が異常だろう。やがて、東京に残った彼等は、大久保利通を筆頭に、弟の西郷従道、従兄弟の大山巌樺山資紀、川村純義・・・等は、西郷やその仲間たちへ銃口を向けることになる。そして、その後、束の間の栄耀栄華を極め、生き恥を晒すことになる。ところが、桐野は、彼等とは違う。西郷の辞職、帰郷を知ると、即断即決の早業で、陸軍少将の職を辞し帰郷した。何故、即座に、すべてを投げ捨てて、桐野は、西郷を追うことができたのか。帰郷後も、西郷にピタリとくっついていた訳ではない。「私学校」設立後も、「私学校」とは少し距離を置いて、出身地の吉野村やその周辺で、農業や開墾事業等の力仕事に従事している。おそらく、その頃だろう。全国各地から桐野利秋を訪ねてやって来る人は少くなかったと思われる。多くの文献や史料が残されている。その中に、『桐陰仙譚』などの桐野談話録を書き残した石川県の若者たちもいたのだろう。貴重な文献であり 、資料だが、これまでは、あまり重要視されてこなかったようだ。「西南戦争は桐野の引き起こした『 桐野の戦争』だった 」という解釈が少なくないが、それだけの重要人物だと言うなら、桐野が、この頃、何を考えていたか、桐野が何を語っていたか、桐野が何を書き残しているか 、等は重要なはずだ。私は、最近、桐野利秋に関する本を二冊読んだ。あまり上等な著作ではないが、文献や史料など教えられるところは多かった。私は、桐野に関する認識と評価を大幅に変えた。「 鹿児島の封建主義的士族 」というイメージから、一種の「 民権論者」というイメージへ。薩摩藩士・市来四郎の『丁丑擾乱記 』の証言である。

《 世人はこれを(桐野 ) 武断の人というけれど もその深い事情を知らない。( 桐野は)明治六年の冬、辞職して帰省の後は、常に国事の救うべからざる惨状を憂嘆し、皇威が堕ちない策を講じ、国民を文明の枠に立てることを主張し、速やかに立憲政体に改革し、民権を拡張することを希望することにもっとも切だった。》( 市来四郎『丁丑擾乱記 』)

少なくとも、桐野利秋が「 民権論」や「 民権主義 」というものを知っており、それについて熱烈に語っていたということを知って、私は驚いた。私は、西南戦争は、大久保の「 近代主義」と西郷の「 封建主義 」との戦いだったという通説は間違いで、そうではなく、大久保の「国権論 」「 国家中心主義 」と、西郷や桐野の「 民権論」「 民衆中心主義」との戦いだったのではないか、と思うようになった。そう考えると、桐野が、西郷の後を追って、陸軍少将の職を辞し、さっさと帰郷して、農業や開墾事業を始めた理由がよくわかるような気がする。西郷が二度の「 島流し」で体得したものを、桐野は、故郷の大地での農業と開墾事業で体得したのではないか。

《 今の政府は今の国家の大讐 敵にして、今の蒼生( 人民)の怨望する所なり。このゆえに今の政府をと欲する者は、今の国家に不忠にして、今の蒼生を塗炭に苦しましむるに左袒(加担 )する者というべし。》
《 試しに米国の華盛頓( ワシントン)を見よ。英国の逆政を施すにあったって、あえて奔走せず、口を開かず、足を挙げず、潜に時の至るを待つ。そして起ち上がるや、向かう所敵は皆破れ、戦う所は必ず勝つ 。しかし、その話兵たちが携えているのは、皆農具や工器にすぎなかった。》( 桐野利秋の『時勢論』 )

桐野の農業や開墾事業は 、都市インテリがすぐ思いつきそうな「付け刃」のものではない。農業や開墾事業が素朴に好きだったというものでもない。桐野の農業や開墾事業は、民衆や民権論、民権主義と結びついた思想運動や政治運動、一種の「農本主義的民権論」でもあったと言うべきだろう。だからこそ、政府側の「 薩賊」「 賊軍」「 賊将」というプロパガンダにもかかわらず、民衆の圧倒的支持が西郷や桐野に向かうのではないか。何回も言うが、福沢諭吉中江兆民内村鑑三・・・というような一流の思想家や宗教家たちが、西郷や西南戦争に興味を持ち、西郷や西南戦争の思想的意義を高く評価するのも同様だろう。何故か。彼等は、敗者への憐憫の情から、あるいは判官びいきから 、そうしているのか。おそらくそうではないだろう。西郷や桐野の思想や行動の中に、民権論、民権主義、民権思想を見出しているからではないのか。福沢諭吉が、西郷の「 抵抗の精神 」を絶賛したのは、そういう思想的背景があったからっではないのか 。政府権力に立ち向かう民衆の「 抵抗の精神」。それに対して、大久保利通伊藤博文等が象徴する「 開明近代主義」とは、民衆を弾圧し、民衆を統制し、民衆を抑圧する「中央集権的独裁国家 」、あるいは「近代的警察国家 」にほかならないと考えたからではないのか。参考までに、福沢諭吉西郷隆盛論とも言うべき『 丁丑公論(ていちゅうこうろん )』を、全文引用しておく。この論文は、政府当局の情報弾圧を警戒した福沢諭吉が、西郷の戦死の直後、執筆したものだが、公表せず、長い間、未発表だったという。この西郷隆盛擁護論を逆に解釈し、西郷隆盛批判に悪用し、西郷隆盛罵倒を繰り返す歴史学者( 圭室諦成『西郷隆盛岩波新書)が後を断たない。歴史学者とは、難しい論文や史料は、自分たちに都合のいい部分だけ読み、肝心な部分は読まないものらしい。だから、歪曲や隠蔽を許さないためにも、敢えて、福沢諭吉の『丁丑公論 』の全文を引用しておくことにする。





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