文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

【歴史学者亡国論■呉座勇一への公開状(4)】 呉座勇一の発言には、首をかしげたくなるものがある。たとえば、「 在野の研究者へ望むこと 」と呉座勇一は書いている(笑)。

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歴史学者亡国論■呉座勇一への公開状(4)】

呉座勇一の発言には、首をかしげたくなるものがある。たとえば、「 在野の研究者へ望むこと 」と呉座勇一は書いている。呉座勇一は自分は「在野 」ではなく「 官」や「 官学 」の一員だと思っているということだ。呉座勇一の文章を読んでいると、対等の立場で論争や議論をしていない。明らかに「官尊民卑」的な上から目線で論争や議論をしている。「 俺は官、お前らは民 !( 笑 )」その内、天皇陛下から勲章でももらって、仏壇にでも飾るのだろうか。笑止である。呉座勇一は、「学問 」や「 学者 」「 学会(学界 )」というものを、不当に過大評価しているようにみえる。彼の発言の真意( ホンネ )は、「 俺は学者だ 」「 俺は学会の一員だ」「お前らは民間のアマチュア研究者に過ぎない」「 俺の言うことが正しいに決まっている」「 俺たちの言うことを聞け」ということじゃないか と邪推したくなる。呉座勇一大先生は、次のように、民間の歴史学者( 歴史ライター? )を切り捨てている。いやはや。

▼▼▼以下引用▼▼ ▼
仮に井沢氏が「学者の書く文章は小難しくて分かりにくいので、作家の私が分かりやすく解説します」というスタンスであるならば、大いに歓迎する。そうではなくて「歴史学者は専門バカで歴史の真実に迫れていない」と罵倒し、学界を貶めることによって自身のオリジナリティを強調するから批判しているのである。

八幡氏は「井沢氏の主張のどこがおかしいかを具体的に指摘することにも社会的な意義があるから、しっかりやってほしい」と私に注文をつけるが、学者の社会的貢献の本筋は歴史学の最新の研究成果を市民に伝えることであって、奇説トンデモ説を論破することではない。(呉座勇一「 在野の研究者に望むこと」 )
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この人、精神状態は大丈夫なのか。それとも売り込みの戦略なのか。彼が、40歳近い年齢で、いまだ「助教 」( 昔の「 助手」ぐらい?)でしかないという自らの不遇に対する怒りを、本来なら、学会内部の組織中枢に向けるべき怒りを、それが出来ないから、外部に向けて、一見、「 弱者」に見える「 在野の歴史研究者 」たちに向かって当たり散らしているようだけのように、私には見える。たとえば、私が、専門である「哲学 」や「 文学」の世界で、そういう発言をする学者や研究者はいない。ホンネはともかくとして、それを、公共の場所で公言するほど愚かな学者や研究者はいない。たとえば、哲学研究の世界では、「 哲学研究者 」とか「 哲学者 」という言い方がある。哲学を専門的に研究する東大教授や京大教授たちは、「 哲学研究者」と呼ぶことが多いかもしれない。民間の哲学研究者の中には「哲学者 」と自称するものが少なくない。それにしても、哲学を専攻する東大教授や京大教授が 、民間の哲学研究者や哲学者を、呉座勇一のように、地位や肩書き(教授、学者、学会 )をバックに、批判、罵倒したという話は、聞いたことがない。「 文学」や「文学研究 」の分野も同様だろう。歴史学者の世界が異常なのか。それとも呉座勇一が異常なのか。作家の三島由紀夫は、「 東大を動物園にしろ」と言ったが、今こそ、「 東大を動物園にしろ」と言いたくなるというものだ。今、文化系学問の世界では、政府主導で「 文系学部不要論」とか「文学部解体論 」とかいうものが盛り上がって、現実に次々と文学部などが解体されているが、文系の「学者 」や「 大学院生」等は戦々恐々としているのが実情だ。もう既に、東大大学院博士取得者たちが失業し、コンビニでバイトに邁進する時代は始まっている。いいことだ。