哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『佐藤優対談集』『小説・南洲伝』など。

【トンデモ歴史学者亡国論(20)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】 呉座勇一が、歴史研究には『 人生経験』はいらない、それでは『学問としての歴史学』はなりたたない 、とか自信満々に言っていたが、そこに 呉座勇一の馬鹿さ加減が良く出ている。しかも 、呉座勇一は、神戸大学教授=キムラカンの証言を引き合いに出している。キムラカンって誰だ? いずれにしろ、気の毒に、この連中は、自分が才能のない凡庸な三流学者であり、救いがたい 学者馬鹿だということにも気がついてない。呉座勇一は、こう言っている。 《 ・・

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【トンデモ歴史学者亡国論(20)★トンデモ歴史学者=呉座勇一の正体】

呉座勇一が、歴史研究には『 人生経験』はいらない、それでは『学問としての歴史学』はなりたたない 、とか自信満々に言っていたが、そこに 呉座勇一の馬鹿さ加減が良く出ている。しかも 、呉座勇一は、神戸大学教授=キムラカンの証言を引き合いに出している。キムラカンって誰だ? いずれにしろ、気の毒に、この連中は、自分が才能のない凡庸な三流学者であり、救いがたい 学者馬鹿、いや馬鹿学者だということにも気がついてない。馬鹿も学者になれるという見本。呉座勇一は、こう言っている。
《 ・・・史学概論などで歴史学の学生が最初に学ぶことは、「私たちは過去を直接体験することができないから、史料という媒介物を通じて過去に迫るしかない」ということである。すなわち「史料のないところに歴史はない」のである。ゆえに史料の発見・整理・解釈の技法が歴史学の根幹をなしている。 》

「 史料のないところに歴史はない」。ついに出ました。馬鹿は死んでも治らないというが、呉座勇一は 、さらに、次のように、トンデモないことを書いている。

《 八幡氏は史料解釈には人生経験がものを言うと主張するが、神戸大学教授の木村幹氏も指摘するように、人生経験などという主観的なものに基づいて分析していたら、客観性・再現性が担保できず、学問として成立しない。・・・》

いやはや。「 客観性 」とか「 再現性 」が、そんなに大事なのか。本当に大事なのは反復不可能だろう。小林秀雄を読んだことがないのか。呉座勇一や木村幹等は 、自分たちが言っていることが、「 反学問的」「 反思想的」であり、馬鹿馬鹿しいことだとは思わないのか。「学問としての歴史学」が大事か、「現実としての歴史」が大事か、という初歩的な常識が、この学者崩れのニセモノどもには分かっていない。この呉座勇一の言い分が、あまりにも幼稚=稚拙な、デカルト主義的な、単純素朴な近代主義的学問論であり思想論であるということが、分からないらしい。小林秀雄は、柳田國男について、柳田さんの学問(民俗学 )は、柳田さんの個人的な体験と人生と深く繋がっている、柳田さんの学問は、柳田さんだけの学問( 民俗学 )だった。柳田國男の弟子たちは 、柳田さんの形骸、つまり知識や理論しか受け継がなかった、 と言っている。「 柳田國男民俗学柳田國男とともに死ななければならないような、そういう学問だった 」と言っている。たとえば、アインシュタイン相対性理論は、アインシュタインの『 人生経験』と無縁ではない。誰にでも共有出来る『 人生経験』ではない。アインシュタインの学説は、後に、凡庸な三流の学者質によって、知識化=体系化され、サルにも分かる凡庸な理論になるかもしれないが・・・。ところが、呉座勇一は、木村幹等を味方につけて 、こう言っている。

《 ・・・八幡氏の人生経験は八幡氏だけのものであり、他の人は継承できないからだ。仮に八幡氏の深い人生経験に基づく歴史解釈が正しかったとして、八幡氏が亡くなった後、私たちはどうやって歴史研究を進めれば良いのか。次の「天才」が現れることをお祈りでもするのだろうか。 ・・・ 》

馬鹿につけつる薬はない、というのは、歴史的真実だ、と思う。呉座勇一は「国際日本文化研究センター 」とやらに所属しているらしいが、こういう馬鹿学者に 高い給料を払うぐらいだったら、税金の無駄使いだから、即、解体せよ。そもそも、「 国際日本文化研究センター(日文研 ) 」なんて、インチキ学者=梅原猛等が、政治的謀略を駆使して、政府に作らせた
バブル時代の遺物「 ハコモノ」だろう。





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