文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(1)ー明治天皇と西郷南洲。 西郷南洲は、征韓論論争の果てに、あっさりと身をひいて、公職を辞職して、鹿児島に帰っていった。その時、西郷南洲は、「 私は策謀をしなかった」と言ったと伝えられているが、この言葉の意味は小さくない。普通は、西郷南洲は、征韓論論争に敗れて、敗走するように、故郷・鹿児島へ帰って行ったということになっている。私は、そうは思わない。西郷南洲は、征韓論論争に負けてもいなければ、敗走したのでもない。そもそも「 征韓論論争 」は、あるいは「 明治六年政変 」は、征韓論をめぐる

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『南洲伝』覚書(1)ー明治天皇西郷南洲

西郷南洲は、征韓論論争の果てに、あっさりと身をひいて、公職を辞職して、鹿児島に帰っていった。その時、西郷南洲は、「 私は策謀をしなかった」と言ったと伝えられているが、この言葉の意味は小さくない。普通は、西郷南洲は、征韓論論争に敗れて、敗走するように、故郷・鹿児島へ帰って行ったということになっている。私は、そうは思わない。西郷南洲は、征韓論論争に負けてもいなければ、敗走したのでもない。そもそも「 征韓論論争 」は、あるいは「 明治六年政変 」は、征韓論をめぐる論争でも政争でもなかった。大久保利通岩倉具視伊藤博文等が試みた権力奪回のための政争であった。私は、個人的には「 大久保利通のクーデター」だったと思う。大久保利通等、欧米使節団の一行は、行く先々で、政治的大失敗を繰り返していた。ところが、留守政府と揶揄されることになる国内残留組は 、西郷南洲を筆頭に、江藤新平板垣退助大隈重信等が集う留守政府は、どんどん革新的な政策を断行していった。明治新政府の主導権は、すっかり、彼らの手に移っていった。帰国後の大久保利通等は、なすすべがなかった。ここから、大久保利通岩倉具視伊藤博文等は 、西郷南洲江藤新平板垣退助等から主導権を奪還すべく、明治天皇を巻き込んで、「 クーデター 」まがいの陰謀を画策する。それが征韓論論争だった。西郷南洲は、その陰謀を知っていたが、明治天皇までが大久保利通等の陰謀=謀略のターゲットになり 、洗脳、篭絡され、仲間に取り込まているのを知ると、もはやこれまでと、あっさりと帰国を決断する。しばらく雲隠れしたあげく、誰に挨拶することもなく、さっさと船で帰国する。ところが、通説によると、西郷南洲が、大久保利通の家に、最後の帰国挨拶をするために、訪れたことになっている。その話の出どころは、伊藤博文の証言だ。伊藤博文の証言を、充分に検証することもなく、真に受けているのが、歴史学者や歴史作家たちである。その代表が、司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』である。第三巻に、西郷南洲が、別れの挨拶に大久保邸を訪問した時の様子が描かれている。もちろん、司馬遼太郎の「大嘘 」であり「虚構 」である。この話の出どころは伊藤博文の証言である。それしかない。伊藤博文は同席しており、一部始終を見聞したということになっているが、もちろん、この話は、伊藤博文の「 捏造」である。この日の伊藤博文の日記にも、大久保利通の日記にも、「 西郷南洲訪問」の記述はない。西郷南洲が、今更、大久保邸を訪問するはずがない。行くとすれば、大久保利通を刺し殺す時ぐらいであろう。しかし、そういうことは、西郷南洲はしない。司馬遼太郎は、大久保利通を大きく見せようとしている。逆に、西郷南洲を卑小な人物と見せようとしている。こんな時に、安っぽい「 友情物語 」が通用するはずがない。大衆通俗作家=司馬遼太郎の限界がここにある。





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