文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(8)ー明治天皇と西郷南洲。 江藤淳の『南洲残影』について、もう少し続ける。江藤淳は、西郷と明治天皇の微妙な関係にもふれている。西郷は、 大久保利通や岩倉具視等が、明治天皇を巻きこんで、既に決定事項であった征韓論( 遣韓論?)をひっくり返し、強引に征韓論論争に決着をつけようとしていることを知ると、あっさり、明治天皇へも「あいそををつかし」、自らが貢献し、作り上げた明治新政府へも「 見切り」をつけて、辞職し、故郷・鹿児島へと帰郷した。歴史学者たちの通説では、西郷が、「 征韓論論争や明治六

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『南洲伝』覚書(8)ー明治天皇西郷南洲

江藤淳の『南洲残影』について、もう少し続ける。江藤淳は、西郷と明治天皇の微妙な関係にもふれている。西郷は、 大久保利通岩倉具視等が、明治天皇を巻きこんで、既に決定事項であった征韓論( 遣韓論?)をひっくり返し、強引に征韓論論争に決着をつけようとしていることを知ると、あっさり、明治天皇へも「あいそををつかし」、自らが貢献し、作り上げた明治新政府へも「 見切り」をつけて、辞職し、故郷・鹿児島へと帰郷した。歴史学者たちの通説では、西郷が、「 征韓論論争や明治六年の政争に負けた・・・」ということになっている。また司馬遼太郎のような歴史作家も、「西郷には、明確なな国家ビジョンがなかった。負けるべくして負けた 」というようなことを『 翔ぶが如く』で強調している。が、どうもそんなに単純な話ではないのではないか。大久保利通岩倉具視等は 、西郷が天皇に「直訴 」するのではないかと、警戒して 、天皇に直訴出来ないように、既に手配済みだった。まさに「君側の奸 」である。しかし、西郷は直訴どころか、無言のまま東京を去った。黙って東京を去ることによって、明治天皇にも、日本国民にも、何かを伝えようとしたのではないか。江藤淳は、書いている。

《 だが、その「天子 」と皇族が、それを戴く政府の「奸謀 」 が、ともに相寄って自ら国を亡ぼそうとしているとすれば 、この一事だけは どうしても赦すことができない。人は一口に「 尽忠報国」という。しかし「尽忠 」ではなくとも、「 報国 」、即ち国恩に報いずにはいられないという一途な熱情を、どうして抑えることができるだろうか。然り、西郷は、「報国 」の至情のために挙兵したのである。国を亡ぼそうとする「 天子 」と皇族と政府の「奸謀」を、粉砕するためにこそ鹿児島を出立したのである。》

江藤淳によれば 、西郷は、大久保利通岩倉具視等の明治政府とだけ戦ったのではなく、「 天子」 、つまり「 明治天皇」や皇族とも戦ったのである。西南戦争に立ち上がった理由に関しても、同じだ。西郷は 、最終的には、「 明治天皇 」と戦ったのである。天皇をも越える「もっと大きな大義 」のためである 。しかし、歴史学者たちは「名分なき蜂起 」と言い続けている。ところが、江藤淳は、さらに、城山での最後の「 西郷戦死」の場面で、こう書いている。

《 負傷のために、西郷は起つことができなかった。その場に徐ろに跪座し、襟元をつくろうと、西郷は双手を合わせ、はるかに東天を拝した。彼を「賊 」として追討することを命じた天子に、最後の衷情を尽くしたのである。そのとき彼は、それから三十五年後にその天子が崩御することを、その御跡を慕うて薩軍に聯隊旗を奪われた乃木希典が殉死することを、五十九年後には二・二六事件が起き、六十八年後いは、日本が連合国に敗れて六年有半のあいだ占領の屈辱を嘗めることを 、何一つ知る由もなかった。》
西郷は、「尊皇攘夷 」の精神を忘れてはいない。ただ、西郷は、明治天皇と刺し違えてでも、「 何か」を訴えたかったのである。福沢諭吉中江兆民内村鑑三だけではなく、一般庶民も一般大衆も、無意識のうちに、その「 何か」を理解していたのである。私は、江藤淳の言葉から、三島由紀夫の『 憂国』や『英霊の聲 』を連想するし、また丸山眞男の『忠誠と反逆 』を連想する。その「 何か 」が分からないのは、皮肉にも「 歴史学者 」だけだろう。少なくとも、江藤淳の言葉と分析は、凡庸な事実主義者=史料第一主義者でしかない歴史学者たちとは無縁である。





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