文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(11)ー西郷南洲と重野安繹。 私は、重野安繹(しげの=やすつぐ )という人物に興味を持っている。西郷南洲や、あるいは明治維新や西南戦争について知っていても、かなり 、細かいところまで探求したことがなければ、重野安繹という人物は知らないと思う。西郷南洲を批判、嘲笑する類の本を読むと、必ず、重野安繹という名前が出てくる。司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』にも頻繁に証言者として登場するが、人となりについてはあまり詳しい説明はない。いずれにしろ、『 翔ぶが如く』は、重野安繹の「 西郷批判 」の証言がな

 

私は、重野安繹(しげの=やすつぐ )という人物に興味を持っている。西郷南洲や、あるいは明治維新西南戦争について知っていても、かなり 、細かいところまで探求したことがなければ、重野安繹という人物は知らないと思う。西郷南洲を批判、嘲笑する類の本を読むと、必ず、重野安繹という名前が出てくる。司馬遼太郎の『 翔ぶが如く』にも頻繁に証言者として登場するが、人となりについてはあまり詳しい説明はない。いずれにしろ、『 翔ぶが如く』は、重野安繹の「 西郷批判 」の証言がなければ成立していない。それほどの重要人物である。実は、私も、長い間、重野安繹という人物の存在を知らなかった。重野安繹は、薩英戦争とその後の外交交渉で活躍している。要するに「タフ・ネゴシエイター 」として大活躍した人物なのである。薩英戦争は、薩摩軍の「ボロ負け 」だったと思われているが、そんなことはない。薩摩藩も市街地を焼かれるなど大損害えおこうむったが、イギリス軍も無傷ではなかった。イギリス軍は、薩摩藩側の反撃に恐れをなして、錨を切って「 逃げた」というのが実情であった。要するに、「通説 」や「俗説 」とは異なり、現実の歴史は全く違ったのである。その後の薩摩とイギリスの賠償交渉で、英国人を相手に一歩も引かずに、難解な議論を展開し、交渉をまとめあげたのが若き秀才・重野安繹であった。才気煥発ではあるが、やや人格的に問題のある重野安繹は、政治家や官僚としては、使いものにならないと思われたのであろう。その後、重野安繹は、学問の道に進み、東京帝国大学国史学科教授として再登場する。そして、歴史学者という立場から、「 西郷小人物説」を証言する。はっきり言って、東京帝国大学歴史学科の関係者は、権力に迎合するだけで、信用出来ないという見本である。ところが、この怪しい人物が、西郷の「 奄美大島・流刑時代」を、かなり詳細に知っているのである。数少ない証言者であることは間違いない。実は、西郷よりも一年ほど先に 、奄美大島に「 島流し」にあって、島に住みついていたからだ。重野安繹は、若い時から才気煥発な秀才で、16歳で,薩摩藩の子弟教育機関造士館 」助手になっている。やがて、幕府の大学である「 昌平黌」に学び、そこでも飛び抜けて優秀な生徒だったらしい。その後は、造士館の「 訓導師」となり、薩摩藩留学生の監督に当たっていた。西郷が、藩主・島津斉彬とともに江戸へ向かう以前から 、江戸にいたのである。要するに、薩摩藩江戸屋敷に出入りする若い薩摩藩士の一人だった。当然、その頃から、西郷とは面識があった。しかし、重野安繹は 、「金銭トラブル 」に巻き込まれ、薩摩に呼び戻され、処罰を受ける身となった。その時、西郷の「 助言」で、重刑( 死罪 )を免れ、奄美大島島流しになったというわけである。西郷が、奄美大島の「 龍郷」に流されて来ていると聞きつけた重野安繹は、早速、その頃住んでいた「 阿木名(あきな )」から、遠い山道を、夜通し、三日間も歩き続けて、西郷のもとへやって来た。二人は、お互い「島流し 」の身で孤独だったから、格好の話し相手になった。重野安繹は、三日三晩、西郷宅に、泊まり込みで、話し込んだという。後に東京帝国大学教授になる重野安繹のとの交流が、西郷に、大きな学問的、思想的影響を与えたことは間違いない。