哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とベルグソンとマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(12)ー西郷南洲と重野安繹。 私が、この『南洲伝』という西郷の評伝を書こうと思い立った切っ掛けは、幾つかあるが、その一つが、徳之島出身の稲村公望さんと、沖永良部島出身の内弘志さんに出会い、西郷の「島流し 」時代の話を聞くようになったことからである。言うまでもなく、徳之島と沖永良部島は、奄美大島とともに、西郷が島流しにあった島である。私は、鹿児島生まれ、鹿児島育ちなので、小さい頃から「 西郷さん 」の話は、よく聞きながら育った。しかし、あまり、「島流し 」時代の話は詳しくは聞いていなか

・・・

人気ブログランキング








『南洲伝』覚書(12)ー西郷南洲と重野安繹。

私が、この『南洲伝』という西郷の評伝を書こうと思い立った切っ掛けは、幾つかあるが、その一つが、徳之島出身の稲村公望さんと、沖永良部島出身の内弘志さんに出会い、西郷の「島流し 」時代の話を聞くようになったことからである。言うまでもなく、徳之島と沖永良部島は、奄美大島とともに、西郷が島流しにあった島である。私は、鹿児島生まれ、鹿児島育ちなので、小さい頃から「 西郷さん 」の話は、よく聞きながら育った。しかし、あまり、「島流し 」時代の話は詳しくは聞いていなかった。だから、稲村さんや内さんの話は新鮮だった。しかも彼等の「 西郷熱」は、鹿児島市内の人達のそれとは異質だった。私は、あらためて西郷南洲という人物に興味を持った。さて、西郷と重野安繹の関係は、西郷を語る時、あるい、は論じる時、かなり重要である。学問や思想の問題が絡んでいるからだ。奄美大島時代に 、西郷は、文人であり学者でもあった重野安繹と頻繁に交流することによって、多くのことを学んでいる。どちらかと言えば、それまで実践派、行動派だった西郷が、はじめて、世俗を離れて、学問や瞑想に熱中することの出来た時代が「島流し」の時代だった。西郷の「学問 」の先導役が重野安繹だった。奄美大島の三年間、西郷と重野は「 学問」に熱中したと言っていい。人間的には相容れないものがあった二人だが、二人しか話相手はいないのである。ところで、奄美大島の三年間が過ぎて、やっと薩摩藩へと帰還を許されるが、二三ヶ月も経たないうちに、今度は、本物の「 罪人 」として徳之島と沖永良部島に流される。西郷は 、沖永良部島でも、川口雪蓬( かわぐち・せっぽう )という学者、文人とめぐり逢い、意気投合する。不思議なことに、西郷は、行く先々で、優秀な学者や文人にめぐり逢うのだ。島津斉彬に随伴した江戸では、水戸学派の重鎮・藤田東湖橋本左内奄美大島沖永良部島では重野安繹や川口雪蓬。つまり西郷は、島流し時代の6年間、重野安繹や川口雪蓬というような優秀な指導者の元で、「学問 」に励むことが出来たのである。さて、福沢諭吉は、西郷擁護論である『丁丑公論 』という論考の中で、西郷を擁護しつつ も、西郷の失敗は、「不学 」だったことにあると言っている。私は、この福沢諭吉の言い方に疑問を持っている。福沢諭吉のいう「学問 」とは、どういう学問なのか、 と。そもそも、福沢諭吉は、この西郷擁護論『丁丑公論 』を、生前は、公開していない。西南戦争終結直後に書いたが、政府の言論統制言論弾圧を恐れて、未発表にしている。死後に公表してくれ、と。私は、そこに違和感を感じる。なんだ、福沢諭吉は口先ばかりで、現実の権力闘争からは逃げて、自分は闘っていないじゃないか、と。それでいて、西郷の失敗は「 不学 」に原因があると言うが、福沢諭吉の言う「 学問 」とは、机上の空論のことなのか。実践や行動の伴わない空理空論のことなのか。私は、西郷にこそ「学問 」があったと考える。福沢諭吉の言う「学問」は、実践や行動の伴わない、あるいは実践や行動を回避した書生論であり、空理空論である。私も、元々は、福沢諭吉の私塾であった慶應義塾大学に学んだ「 塾生 」の一人だが、学生時代から、福沢諭吉には、あまり興味がなかった。私が、福沢諭吉に興味を持ったのは、西郷擁護論である『丁丑公論 』を読んでからである。私は 『丁丑公論 』の内容には賛成し、感動したが、最後の「 不学」という言葉で、立ち止まった。それでは、「 西郷には学問がなかったが、福沢諭吉慶應義塾で学んだ『塾生 』たちには学問が合ったのか? 」と。

・・・・・・にほんブログ村 政治ブログへ・・・