哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とベルグソンとマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(13)ー西郷南洲と重野安繹。 西郷が、安政6年1月12日、奄美大島の龍郷村に着いた時、33歳、迎えの船が、阿淡崎港にやって来たのが、文久2年1月12日で、西郷は36歳になっていた。つまり、合計3年もの間、奄美大島という孤島に閉じ込められていたことになる。この時代に3年間の空白は長い。時代は、西郷の存在など無視して、激しく動いていた。しかし、西郷にとって、この3年間は、あるいは、再度の島流しの時代の2年間と合わせて5年間は、無駄な5年間ではなかった。ある意味では、豊かな5年間であった。学問


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p『南洲伝』覚書(13)ー西郷南洲と重野安繹。

西郷が、安政6年1月12日、奄美大島の龍郷村に着いた時、33歳、迎えの船が、阿淡崎港にやって来たのが、文久2年1月12日で、西郷は36歳になっていた。つまり、合計3年もの間、奄美大島という孤島に閉じ込められていたことになる。この時代に3年間の空白は長い。時代は、西郷の存在など無視して、激しく動いていた。しかし、西郷にとって、この3年間は、あるいは、再度の島流しの時代の2年間と合わせて5年間は、無駄な5年間ではなかった。ある意味では、豊かな5年間であった。学問や思想を深く突き詰めることの出来た5年間であった。奄美大島時代は、重野安繹(しげの=やすつぐ )が、沖永良部島時代は川口雪蓬( かわぐち・せっぽう)が、話相手としていた。前にも書いたように、二人とも、優れた文人であり、学者だった。西郷は、この遠島時代に、学問と思索に没頭することが出来た。「漢詩」を学び、「書」の鍛錬に励んだ。西郷は多くの「書 」を遺しているが、ほとんどが、島流し以後である。「西郷には『 学 』がなかった 」というような言い方がよくされるが、「 学問 」というものを理解しないものの言い方である。だから、歴史学者も大衆歴史小説家も、西郷の学問や思想を無視した上で、学問がなかった、と言うが、本末転倒というほかない。西郷に学がなかったのではなく、歴史学者や大衆歴史小説家の方に学問や思想が理解できなかっただけである。西郷には、身体で学んだ「 学問 」があった。「活きた学問」があった。西郷の周りにはいつも一流の学者や思想家がいた。藤田東湖橋本左内から重野安繹や川口雪蓬まで。学ぶ気さえあれば、いくらでも学問は出来ただろう。そして、西郷は、大学や大学院で学ぶような知識や技能だけの学問ではなく、人と人とが接し、ぶつかり会うことによって、以心伝心で伝達されるような学問を学び、身につけて行ったと言っていい。西郷が、先輩や友人達から学んだ学問や思想は、活きた学問であり、活きた思想であった。西郷が、「つけやいば」の浅薄な知識や教養を振り回すだけの軽薄才子たちを軽蔑し、批判したのは、西郷に学問がなかったからではない。西郷の学問は「活きた学問 」だったが、軽薄才子たちの学問は「死んだ学問 」だったからだろう。西郷は、「人の好き嫌いが激しかった」と重野安繹は言うが、おそらく正しいだろう。西郷は、空理空論を振り回し、大言壮語する軽薄才子たちのことが、あまり好きではなかった。嫌いだった。



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