哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とベルグソンとマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(14)ー西郷南洲と重野安繹。 奄美大島時代、西郷の話し相手として、学者・重野安繹(しげの=やすつぐ )がいたことは、重要である。しかも、この重野は、西郷の証言者としても重要である。寝食を共にしたというわけではないが 、かなり頻繁に交流し、二人は、会っている時は、昼夜を問わず、話し込んでいる。雑談や世間話に明け暮れていたわけではないだろう。漢学や漢詩にも造詣が深い学者・重野安繹を相手に、西郷が学ぶことは少なくなかっただろう。重野も、昌平黌でも優秀な成績をおさめて、安井息軒などに高く評価され

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『南洲伝』覚書(14)ー西郷南洲と重野安繹。

奄美大島時代、西郷の話し相手として、学者・重野安繹(しげの=やすつぐ )がいたことは、重要である。しかも、この重野は、西郷の証言者としても重要である。寝食を共にしたというわけではないが 、かなり頻繁に交流し、二人は、会っている時は、昼夜を問わず、話し込んでいる。雑談や世間話に明け暮れていたわけではないだろう。漢学や漢詩にも造詣が深い学者・重野安繹を相手に、西郷が学ぶことは少なくなかっただろう。重野も、昌平黌でも優秀な成績をおさめて、安井息軒などに高く評価されたという、その豊かな学識を隠すことなく、披露したはずである。重野は、その後、84歳まで長生きし、東京帝国大学教授を経て、貴族院議員にまでなるが、西郷に関して、多くの重要な「 証言」を残している。しかし、彼の証言は、割引いて考えなければならない。重野は、大久保利通側の重要人物として後世を送るからである。西南戦争終結直後の大久保利通邸での二人の会話、「西郷の伝記を書いてくれ」とか、大久保と西郷の二人だけが知っている「 心中未遂事件」の話などが示しているように、明らかに、重野の証言は「 大久保利通擁護」を前提になされているからだ。ここで、重野の人生を、簡単に振り返っておく。重野は、西郷と同年生まれで、同じく鹿児島(薩摩 )生まれである。正確に言うと、1827年11月24日(文政10年10月6日)、鹿児島の坂元村( 坂元町 )に生まれている。西郷も、同年、12月7日、鹿児島城下下加治屋町にうまれれいる。重野は、子供の頃から才気煥発な、何事にも優秀な少年だったらしく、学問だけではなく、芸事にも才能を発揮し、薩摩藩内でも、それを早くから認められたらしい。しかし、小さい頃、西郷との接点はない。薩摩藩の子弟教育機関造士館」で学び 、成長すると、学問の才能を評価され、江戸へ出て、幕府の大学ともいうべき「昌平黌」に学んでいる。この頃までには、まだ西郷と接点はない。西郷と 重野が、お互いにその存在を知るのは 、西郷が、島津斉彬に見い出され、「御庭番 」として江戸薩摩藩邸に出入りするようになってからだろう。その頃、既に、重野は、昌平黌を修了し、江戸における薩摩藩留学生たちの「 監督役 」になっていた。昌平黌でも才能を発揮したらしく、教授役の安井息軒らにも認められ、昌平黌を通じての人脈も豊富だった。つまり、西郷と重野は、島津斉彬の元で、共に、他藩の有志たちとの対外交渉に当たっていた。水戸藩藤田東湖や、福井藩橋本左内など、当時の一流の学者・思想家たちとの交流も西郷が、一人でやったわけではない。重野も、深く関わっていた。


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