文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(15)ー西郷南洲と重野安繹。 西郷は、「 人徳」「行動力」「 決断力 」「担力 」・・・などが高く評価されるのに反比例するかのように、「学 」「 学問 」「 思想」という側面が、あまり評価されない。極端になると、これが、西郷批判や西郷否定論にしばしば使われる。西郷擁護論である『丁丑公論 』で、福沢諭吉が、わざわざ、「西郷の弱点は、『 学問』 がなかったことだ」と言ったように、西郷を絶賛するにせよ、誹謗中傷するにせよ、これが定番になっている気配がする。しかし、私は 、そうは考えない。

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『南洲伝』覚書(15)ー西郷南洲と重野安繹。

西郷は、「 人徳」「行動力」「 決断力 」「担力 」・・・などが高く評価されるのに反比例するかのように、「学 」「 学問 」「 思想」という側面が、あまり評価されない。極端になると、これが、西郷批判や西郷否定論にしばしば使われる。西郷擁護論である『丁丑公論 』で、福沢諭吉が、わざわざ、「西郷の弱点は、『 学問』 がなかったことだ」と言ったように、西郷を絶賛するにせよ、誹謗中傷するにせよ、これが定番になっている気配がする。しかし、私は 、そうは考えない。それは違うと思う。三島由紀夫江藤淳の西郷論に、私が注目するのは、三島由紀夫江藤淳、最近では、『未完の西郷隆盛 』で、西郷の学問や思想に切り込んだ先崎某の西郷論が、単なる政治史や権力闘争史ではなく、思想史や精神史の領域にまで、分析の手を伸ばしているからだ。西郷は、13歳ぐらいで、喧嘩の延長で、腕を切られ、それ以来、剣術の道がとざされた。西郷は、剣術修行が出来なくなった代わりに、読書や学問に励むようになった。『南洲翁遺訓 』などに見られる西郷の学問や思想は 、けっして「 付け焼刃 」のものではない。西郷が、江戸へ出るや、いちはやく、藤田東湖橋本左内のような一流の学者、思想家たちの中へ飛び込んでいき、臆することなく対等に渡り合えたのも、西郷自身に、学問と向学心があったからだろう。そして、その学問を、さらに深化させ、成熟させたのが、5年間の「 島流し」時代だった。奄美大島時代に再会し、深く交流した重野安繹とは、意気投合し、肝胆相照らす仲になることはなかったが 、三年もの長きにわたり、学問や思想に関して、お互いに情報交換し、切磋琢磨したことは間違いない。流罪人仲間とはいえ、重野も、タダモノではなかった。しかし、重野に、学問や思想を実践したという形跡がない。重野にとっては、奄美大島時代は、単なる「 流刑時代 」の一ページに過ぎなかった。しかし、西郷の場合はちがう。

▼▼▼以下引用▼▼ ▼
歴史家、漢学者。父は鹿児島藩郷士。元治元年(1864)造士館助教となり、島津久光の命で『皇朝世鑑』の編纂にあたる。維新後は上京し、修史局、修史館で修史事業に携わる。明治12年(1879)東京学士会院会員に当選。14年編修副長官となり、翌年から『大日本編年史』の編纂を行う。児島高徳らの実在を否認する抹殺論を提唱。史料による実証を重んじ、考証史学を推進した。19年臨時修史局設置に伴い編修長となる。22年史学会を創設し、初代会長。翌年貴族院勅選議員となる。門人岩崎弥之助のために静嘉堂文庫創設に尽力した。
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