哲学者=山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』

哲学者、文芸評論家。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とベルグソンとマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(16)ー西郷南洲と重野安繹。 これは、西郷が 、沖永良部島から奄美大島の「得藤長( とく・とうちょう)」に送った手紙だが、次のように書いている。 《 昨冬はお手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。私は異議なく消光(日を送る )いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっておりますので脇から見れば、よほど窮屈 に見えるようですが、拙者にはかえってうよろしく、俗事に紛れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば、学者のもな


『南洲伝』覚書(16)ー西郷南洲と重野安繹。

これは、西郷が 、沖永良部島から奄美大島の「得藤長( とく・とうちょう)」に送った手紙だが、次のように書いている。
《 昨冬はお手紙いただき、遠方へお心がけ下さり、かたじけなくお礼申し上げます。私は異議なく消光(日を送る )いたし、この島でも詰役人がしごく丁寧で仕合わせの至りです。囲い入りになっておりますので脇から見れば、よほど窮屈 に見えるようですが、拙者にはかえってうよろしく、俗事に紛れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば、学者のもなれそうな塩梅です。まずはご安心下さるよう。・・・》
「俗事に紛れることもなく、余念なく学問一辺にて、今通りに行けば、学者のもなれそうな塩梅です・・・ 」。これは、西郷より先に 、沖永良部島に流人として流されてきていた川口雪蓬( かわぐち・せっぽう )との交流を前提にして、書いているのだが、しかし、奄美大島時代も変わらなかったと、私は思う。奄美大島時代と言うと、「 愛加那」や「 子供( 菊次郎 )」のことが話題になることが多いが 、 重野安繹(しげの=やすつぐ )との交流も忘れてはならない。奄美大島3年、沖永良部島2年、合計5年の期間は、西郷にとっては、学問に打ち込んだ5年だった。
西郷と重野が、具体的にどういう話をしたかはわからない。おそらく多くは、日本の政治情勢の話だっただろうが、しかし、学問や思想に関する話がなかったとは思えない。重野は、造士館から昌平黌まで、もっぱら漢学を学び、漢学者として 、その学者人生を始めている。西郷も、少年時代から、論語を手始めに 朱子学陽明学など、多数の漢籍には親しんでいる。二人の話が、雑談や政治情勢論から離れて、純粋に学問や思想の話に移行していっただろうことは間違いない。まず、西郷や大久保利通等が、少年時代に読んだと思われる本を見てみよう。『 四書五経』『 近思録』『真田三代記 』『神皇正統記 』『 曽我物語』・・・。さらに『 論語』『 言志録』『 通鑑綱目』『韓非子 』『 洗心洞劄記』『王陽明全集 』『 陳龍川全集』・・・。今から考えると随分難解な本を読んでいるように見えるが 、この程度は、当時の少年としては、普通のことだったと思われる。江戸時代末期のこの時代は 、たしかに、漢学や国学から蘭学や洋学への転換期であったことを考えるならば、西郷等の漢学中心の学問や思想は、少し遅れていたかもしれない。おそらく、福沢諭吉の「 西郷の最大の罪は不学にあり・・・」という言葉の意味は、西郷の蘭学や洋学への関心の欠如を言いたかったのかもしれない。しかし、それにもかかわらず、福沢諭吉をはじめ、中江兆民内村鑑三等、「 洋学派」と思われる思想家たちが、何故、西郷を擁護、絶賛したのだろうか。私は、やはり、西郷の学問や思想の深さと徹底性にあったと思う。西郷の学問や思想は、机上の空論ではなく 、行動を伴ったものだった。夏目漱石も、日本の「 近代化」を、上滑りの「 近代化 」と見て、厳しく批判したが、福沢諭吉中江兆民内村鑑三等も、夏目漱石と同様に、西南戦争で敗北した西郷を擁護し、絶賛することによって、日本の薄っぺらな「 近代化」を批判したと言っていいのではないか。西郷の学問や思想は「活きた学問」や「 活きた思想 」だった。少年時代の勉学はともかくとして、江戸に登ってからの藤田東湖橋本左内等との交流、あるいは島流し時代の重野安繹や川口雪蓬との交流などは、西郷に学問の機会を与えた。西郷は、単なる知識としての学問や思想ではなく、「活きた学問 」や「 活きた思想」を学び取っていった。