文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

『南洲伝』覚書(26)ー西郷南洲と重野安繹。 重野安繹(しげの=やすつぐ )は、西郷の「 学問 」についても「証言 」している。重野によれば、西郷は、「秩父くずれ 」、あるいは「 近思録くずれ 」と呼ばれていた薩摩藩内の派閥抗争事件で、弾圧された陽明学系の教師たちから多くを学んでいた。それは、同じような朱子学とはいえ、理論より実践を重んじるグループだった。重野安繹のような正統派朱子学を学んだ者に言わせるならば、「 負け犬の学問 」であった。しかし、それ故に、薩摩藩内の派閥事件「 近思録崩れ事件」

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『南洲伝』覚書(26)ー西郷南洲と重野安繹。

重野安繹(しげの=やすつぐ )は、西郷の「 学問 」についても「証言 」している。重野によれば、西郷は、「秩父くずれ 」、あるいは「 近思録くずれ 」と呼ばれていた薩摩藩内の派閥抗争事件で、弾圧された陽明学系の教師たちから多くを学んでいた。それは、同じような朱子学とはいえ、理論より実践を重んじるグループだっhた。重野安繹のような正統派朱子学を学んだ者に言わせるならば、「 負け犬の学問 」であった。しかし、それ故に、薩摩藩内の派閥事件「 近思録崩れ事件」を、対岸の火事のように眺めていた重野は、明治維新でも中心グループに参加することはできなかった。明治維新ヲ主導したのは、西郷を中心とする「 近思録崩れ 」グループの若者たちだった。重野は、明治維新から外れていたのみならず、その後は、その時々の権力者に媚び諂うことしか出来ない日和見主義者でしかなかった。

▼▼▼▼▼▼以下引用▼▼▼▼▼▼
「西郷はさういふ人々に育てられたから、倒された方の精神を余程多く持つて居た。ぢやに依つて時の家老などが、横柄に振ふのをひどく憎む性質がある。それは免れぬことで、兎角小人の君側を擁閉することは西郷の性質上憎むやうになる。学問も矢張さういふ風に偏して居る。それが遂に十年の西南戦争の前に、世に謂ふ征韓論を唱へて、国へ帰つて私学党を立つて、十年の乱が起つたのも皆さういふところから来て居ると思ふ。
▲▲▲▲▲▲引用終了▲▲▲▲▲▲
重野の「 学問 」と西郷の「学問 」は、大きく隔たっていた。わかりやすく言うと、重野の「 学問」は、学校で学んだ、「机上の空論」的な「 学問」であったが、西郷の「学問 」は、実践的な場で学び 鍛えられた「 学問」だった。この差は、今も昔も変わらない。重野の物の言い方や人物論には、「上から目線 」の物の言い方や人物論が、感じられるのは、その差を意識していたからだろう。昌平黌で学んだ学校秀才と、現場や人間関係で鍛えられながら「学問 」を身につけた田舎秀才。
具体的に言うならば、重野の学問は、昌平黌の学問が象徴するように、体制擁護の「朱子学」であり、西郷の学問は、反体制的な「革命哲学としての陽明学」( 三島由紀夫)であった。重野が西郷の学問を毛嫌いし 、偏った学問と看做すのは当然と言えば当然だろう。それ故に、重野安繹は、恵まれた環境や人間関係の中にいたにも関わらず、めぼしい成果や実績をあげる事が出来なかった。単なる博学な物知りで、人生を終えたように見える。
おそらく西郷も、同僚として交流しながら、重野という「学校秀才」に一目を置いていたであろうが、同時に、表面的な学問はあるが、その学問が身についていない軽薄才子としてしか見ていなかったのではないか。西郷が、重野の学問に敬服したという証拠も証言もない。そもそも、西郷の手紙類に 水戸藩藤田東湖福井藩橋本左内の名前は出てくるが、「 重野安繹 」の名前は出てこない。
重野安繹と西郷の関係は、西郷が島津斉彬のお供をして、初めて江戸を地を踏み、江戸薩摩藩邸で「 御庭番 」として働き始めた頃から始まる。その頃、すでに重野は、江戸の昌平黌で学び、そこを優秀な成績で修了して、薩摩藩教育機関造士館」の教官という立場で、薩摩藩邸に出入りしていた。しかも、同じように他藩との外交交渉という仕事を任されていた。しかし、重野と西郷は、お互いに心を許し、親しく交流したわけではなかった。



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