文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

清水正の『 ドストエフスキー論全集全10巻』を読まずしてドストエフスキーを語るなかれ! ーー清水正教授の「ドストエフスキー論50年展」に寄せてーー。

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清水正の『 ドストエフスキー論全集全10巻』を読まずしてドストエフスキーを語るなかれ!

ーー清水正教授の「ドストエフスキー論50年展」に寄せてーー。
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私は、ドストエフスキーもその小説も好きだが 、「ドストエフスキー論」や8「ドストエフスキー研究」というものは嫌いだ。だから、ドストエフスキー論の古典的名著と言われている森有正の『 ドストエフスキー覚書』も、しばしば書店で手に取ったことはあるが、まともに読んだことはない。私は、「ドストエフスキー論」や「ドストエフスキー研究」より、ドストエフスキーが好きなのだ。もちろん例外はある。私は、小林秀雄の「ドストエフスキー論」だけは読んだ。それに清水正の『 ドストエフスキー論全集』全10巻だけは読んだ。
まず小林秀雄の『ドストエフスキー論 』について言うならば 、私の「思考の原点」になっているのが、小林秀雄ドストエフスキー論である。『 ドストエフスキーの生活』という長編評論は 、高校生時代に読んで、強い影響を受けた。たとえば 、小林秀雄の「『 罪と罰』について」のなかで、ドスドストエフスキー論全集全10巻トエフスキーの次の言葉を読んだ。
《 〜〜5コペイカにも値しない否定家や賢人どもよ、何故、立ち止まってしまうのか!何故、果まで行こうとしないのか。〜〜》
ああ、これだ、と思った。これを読みたかったのだ、と。私は、今でも、ドストエフスキーの、この言葉を、私の「思考の原点」に置いている。ところで、私は、『 罪と罰』の中の、この言葉を、最初は、なかなか見つけることが出来なかった。読み飛ばしていたのだ。ページを一枚一枚、めくっていったが、見つけることに苦労した。それは、エピローグにあった。小林秀雄ドストエフスキー論は 、この言葉に尽きる。いや、おそらくドストエフスキーも、この言葉に尽きる、と私は思った。それは、思考の徹底性、思考の過激性、思考の超越性・・・ということである 。私が、ドストエフスキーとは言っても、「ドストエフスキー論」や「ドストエフスキー研究」が嫌いなのは、その「思考の徹底性・・・」が欠如しているからだ。
それでは、何故、清水教授の「ドストエフスキー研究」と「ドストエフスキー論」を読むのか 。
清水教授の「ドストエフスキー研究」には、別の徹底性 、過激性、超越性・・・がある。学生時代からドストエフスキー一筋に、ドストエフスキーを読み続け、「ドストエフスキー論」を書き続けている。その成果が『 ドストエフスキー論全10巻 』である。私は、その徹底性、過激性、超越性に脱帽する。清水の「ドストエフスキー論」や「ドストエフスキー研究」を読んでいくと、単なる研究ではないことが分かってくる。『 ドストエフスキー論 全10巻』は、ドストエフスキーと悪戦苦闘した清水の思考の実践の記録なのだ。清水の「私小説」なのだ。清水もまた、《果てまで行こう 》としているのだ。
清水の「ドストエフスキー研究」に対する世間やアカデミズムからの評価は、それほど高くないように見える。いや、「高くない」というより、絶望的に低い。他のドストエフスキー研究関係の著書や論文などの参考文献にさえ、ろくに「清水正」の名前は載っていない。東大を頂点とするドストエフスキー研究業界で、清水の「ドストエフスキー研究」は無視・黙殺されている。私は、それに疑問を持ったので、ある日、飲み会の席で、清水教授に、「ドストエフスキー論関係の著作を 、一つにまとめてはどうですか」と提案したとがあった。その提案を受けいれてくれたようで、その後、まもなく、『清水正ドストエフスキー論全集・全10巻 』が企画され、早速、刊行が始まった。そして、いつのまにか、「全10巻」が完結した。
いまや、清水正の『ドストエフスキー論全集全10巻 』を 無視することは誰にも出来ない。驚くなかれ、さらに「(続)ドストエフスキー論全集、全10巻」を構想しているらしい。
この『清水正ドストエフスキー論全集・全10巻 』の刊行は、実質的には、清水正個人の「自費出版」である。清水正は、「商業出版」を相手にしていない。だから、『 ドストエフスキー論全10巻』が刊行できたのである。商業出版には、そういう「命懸けの冒険」は出来ない。今は、本と言えば、出版社や編集者の指示の元に、彼等の顔色をうかがったような、薄ぺらいチンケな本しか出来ない時代である。本が売れなくなるのは当然である。
ところで、清水教授は、最近、しきりに聖書の中の「ラザロの復活」を話題にする。ソーニャが、ラスコーリニコフに読み聞かせた「ラザロの復活」である。先日も、「ラザロの復活をどう思う?」と聞かれた。もちろん、私は、「申し訳ないが、興味ない」と答えた。ここらあたりに、清水正と私(山崎行太郎)の「ドストエフスキー体験」の微妙な差異があるのかもしれない。
清水は、ドストエフスキーのテキストを読みつくし、隅から隅まで、分析し、解釈しまくっている。たとえば、ラスコーリニコフが、『 罪と罰』の冒頭でつぶやく、「俺には『 アレ 』ができるだろか?」という言葉の「アレ」とは何か。高利貸しの老婆「アリョーナ殺し」だけを意味するのか。清水正はそうではない、と言う。そうではなく、「アレ」は、「皇帝殺し」「母親殺し」「妹殺し」をも含意している 、と分析する。当時のロシアは、革命前夜であり、厳しい検閲下にあった。ドストエフスキー自身も、ある秘密結社の政治集会に参加したために「死刑判決」を受けている。減刑されて、死刑はまぬがれたが、8年のシベリア流刑生活を送っている。そのドストエフスキーが、「皇帝殺し(天皇暗暗殺?)」を、主題にした小説を書くはずがない。『 罪と罰』は、高利貸しの「老婆殺し」の小説でなければ 、出版することも出来なかったのである。しかし、ドストエフスキーが書こうとしたのは、単なる「老婆殺し」の小説ではない。ミステリー小説でも風俗小説でもない。政治小説であり、革命小説である。
こういう分析と解釈は、今は、ドストエフスキー研究者なら、誰もが言う「学会の常識」かもしれない。しかし、誰が、最初に言い出したのか。清水正ではないのか。
さて 、もう一つ。『 罪と罰』は、「母親殺し」の物語だと、清水正は言う。ラスコーリニコフの母親・プリへーリアは、若くして夫を亡くし、貧しい年金暮らしをしながら二人の子供を育ている。息子ラスコーリニコフは、成績優秀で、田舎からペテルブルク大学法学部(東大法学部?)に進学し、そこでも、アルバイト生活をおくりながらも、優秀な成績をおさめている。母親のプリへーリアは、ラスコーリニコフの「立身出世」と、落ちぶれた名家ラスコーリニコフ家の「お家再興」を願っている。これを、息子のラスコーリニコフの側から見ると、どうなるか。母親の過剰な期待と過剰な愛情は、一種の呪縛となって、ラスコーリニコフを苦しめ、追い詰めている。 こういう家庭状況の中で、妹が、明らかに「金目当て」で、俗物の弁護士と婚約したという手紙が届く。ラスコーリニコフは激昂する。その結果が、老婆「アリョーナ殺し」であった。
ここで、清水正は、重大な問題を問う。母親プリへーリアは、清貧な教育ママでしかなかっただろうか。ラスコーリニコフをペテルブルク大学法学部にまで進学させた、それまでの「教育資金」は、何処から得てきたのか、と。
罪と罰』のテーマは「踏み越え」である。ソーニャも踏み越え(売春婦)たし、ラスコーリニコフも踏み越え(殺人犯)た。では、ラスコーリニコフの母親・プリへーリアは何を踏み越えたのか。息子を、ペテルブルク大学法学部に進学させるためにプリへーリアも踏み越えたのではないのか。清水正は、プリへーリアには「愛人」がいたのではないか 、その愛人が「資金提供者」ではないか、と言う。貧しいエリート大学生であるラスコーリニコフは、そのことに激しい屈辱を感じていたのだ。だから、母親・プリへーリアからの手紙に 、涙を流しながらも、激怒する。そして・・・。
さて、ここで、『 罪と罰』のエピローグを、あらためて読んでみよう。次のような言葉がある。
《彼らは二人とも青白くやせていた。しかし 、この病み疲れた青白い顔には 、新生活に向かう近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのだった。愛が彼らを復活させたのである。》えっ、こういう文章があったのか。私は、気が付かなかった。無意識のうちに、読み飛ばしていたのであろう。そもそも、私は、こういう「ハピーエンド」が嫌いである。「ラザロの復活」に興味がないように。しかし 、ドストエフスキーは、次のような言葉も書き加えている。
《もし運命が彼に悔恨を送ったら・・・》
ラスコーリニコフには「悔恨」は来なかった。反省もしなかったし悔恨もしなかった。良心の呵責に苦しむこともなかった、もちろん「復活の曙光」に輝くこともなかった。おそらく、ラスコーリニコフは自殺した。「ラザロの復活」の物語は、ラスコーリニコフを救うことは出来なかった。
次回の飲み会では、清水教授に、「ラザロの復活」や「復活の曙光」について、あらためて、聞いてみたい。何故、それらが「問題」になるのか、と。

(続く)