文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

ウィトゲンシュタインの沈黙(2) ■私は、小さい頃から、読書の趣味はなかった。むしろ読書嫌いであった。野山を駆け回って遊ぶ少年だった。本を読むのは、国語の時間だけだった。高校生になっても、同じだった。しかし、私は、何故だか分からないが、小さい頃から、深い憂愁を、胸の内に秘めていた。それが、何であるのか、分からなかった。他人と打ち解けることが苦手だった。私は、人間が嫌いだった。孤独は嫌いだったが、孤独癖があった。心を閉ざしていた。 ■高校2年生の頃、突然、読書するようになった。生物の小野重朗先生に勧められ

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ウィトゲンシュタインの沈黙(2)

■私は、小さい頃から、読書の趣味はなかった。むしろ読書嫌いであった。野山を駆け回って遊ぶ少年だった。本を読むのは、国語の時間だけだった。高校生になっても、同じだった。しかし、私は、何故だか分からないが、小さい頃から、深い憂愁を、胸の内に秘めていた。それが、何であるのか、分からなかった。他人と打ち解けることが苦手だった。私は、人間が嫌いだった。孤独は嫌いだったが、孤独癖があった。心を閉ざしていた。
■高校2年生の頃、突然、読書するようになった。生物の小野重朗先生に勧められて、現代小説なるものを読んだ。その中に大江健三郎の小説があった。世界が一変した。世界が砕けて散った。ああ、これが、憂愁の実態だったのか。何かが、私の前に開かれた。宗教的な覚醒体験のようなものだった。「我発見セリ(ユーレカ)」。そこから、私の、もう一つの人生は始まった。
大江健三郎の「読書ノート」に教えられてドストエフスキーの『地下生活者の手記 』を読んだ。私は、そこに、初めて、気の許せる仲間がいると思った。『 罪と罰』も読んだが、 そこにも仲間がいた。ラスコーリニコフという殺人犯。私が、抱え込んでいた「憂愁」なるものが、何であったのかが 、朧気に分かった。私は、ラスコーリニコフの「殺人哲学」にも「超人哲学」にも、興味が持てなかった。ただ、ラスコーリニコフの「苦悩」と「憂愁」だけに 、強く惹き付けられた。ラスコーリニコフの「考えるという仕事」に・・・。
小林秀雄を読んだ。『ドストエフスキーの生活 』を。私は、ドストエフスキーその人に興味を持った。ドストエフスキーの、暗い横顔の写真を机の前に飾るようになった。小林秀雄を読むことで「批評なるもの」を知った。
■何故、ドストエフスキーだったのか。ドストエフスキーの何が、私の心を鷲掴みにしたのか。私は、生涯、ドストエフスキーを読み続けて過ごしたいと思うようになった。大学ではロシア文学科に進学しようと思った。しかし、早々に断念した。私は、狂いたくはなかった。突然、恐怖に襲われたのだ。ドストエフスキー肖像画を破り捨てた。
■私は、信仰や宗教には興味を持たなかった。むしろ憎んだ。信仰や宗教は、思考の放棄、思考停止だと思った。そこには批評がないように見えた。私は、左翼思想、マルクス主義、政治思想にも興味を持たなかった。私は、平和と民主主義と正義が大嫌いだった。
■私は「甲突川のほとり」に下宿していた。「甲突川のほとり」を散歩しながら確信した。私は、大江健三郎小林秀雄ドストエフスキーが象徴する「文学」が、あるいは「批評」が最も深いと思った。信仰よりも、政治よりも。文学が、批評が・・・。イデオロギーから存在論へ。
■私は、大江健三郎の新刊小説『個人的な体験 』と『日常生活の冒険 』の二冊をバッグに押し込んで、大学受験のために上京した。東京駅で、兄が迎えてくれた。上京後、最初に買った本は、大江健三郎のエッセィ集『厳粛な綱渡り 』だった。兄が、大学からの帰りに、「あった、あった!」と言いながら買ってきた。発売されたばかりの新刊だった。私も兄も、狂っていたのかもしれない。
■兄は、早稲田大学理工学部の3年生だった。私にとっては、この兄が、小さい頃から、私の唯一の「先生」だった。しかし、兄は教科書以外の本を読まなかった。「お前はすごいな、そんなに夢中になれるものがあって・・・」というのが口癖だった。
■兄に連れられて、初めて大隈講堂に行った。大江健三郎の講演を聞くためだった。「われらの文学」シリーズ(講談社)刊行の記念講演会だった。私は、この時、初めて、生きて、動く現役作家というものを、自分の目で、見たのだった。
■今日(11 /28)は、これから、大隈講堂の隣にある大隈会館に行く。『月刊日本』の発行者の一人で、論説委員として健筆を奮ってきた「山浦嘉久さんを偲ぶ会」がある。