文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『 浅田彰大批判(7) 』 ー浅田彰的なるものの現象学(7)』 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 以前にも何回か書いたが、「浅田彰批判」を始めると、各所から反論や批判、罵倒が届いてくる。「山崎行太郎の浅田彰批判は単なる罵倒に過ぎない」と。私の「浅田彰批判」が、「根拠のない罵倒に過ぎない」としか言えない人は、裏を返せば、私の「浅田彰批判」を理解できないということだ。お気の毒としか言いようがない。私が、盲目的で、幼稚な浅田彰フアンを「ミーハー」とか「カブレ」というのは、そこに理由

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浅田彰大批判(7) 』
浅田彰的なるものの現象学(7)』
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以前にも何回か書いたが、「浅田彰批判」を始めると、各所から反論や批判、罵倒が届いてくる。「山崎行太郎浅田彰批判は単なる罵倒に過ぎない」と。私の「浅田彰批判」が、「根拠のない罵倒に過ぎない」としか言えない人は、裏を返せば、私の「浅田彰批判」を理解できないということだ。お気の毒としか言いようがない。私が、盲目的で、幼稚な浅田彰フアンを「ミーハー」とか「カブレ」というのは、そこに理由がある。私の「浅田彰批判」の根拠を分かりやすく説明しよう。馬鹿でも分かるように説明する。浅田彰のデビュー当時から厳しい浅田彰批判を繰り返してきたのは吉本隆明である。あるいは江藤淳である。吉本隆明江藤淳浅田彰批判は、「知の過剰」ということである。「知の過剰」とは何か。それは、受験秀才的な 、丸暗記的な「頭でっかち」ということである。具体的に言えば、「いい国(1192)、作ろう、鎌倉幕府・・・」というように、鎌倉幕府の成立年号は知っているが 、鎌倉幕府の成立の意味や理由、あるいは影響など、歴史の転換期の大きな「闇」については、「何も知らない」、「何も考えない・・・」ということである。受験秀才的な丸暗記型の知性には、考える作業に不可欠な「破壊力」や「突進力」、あるいは「創造力」はない。浅田彰に、「作品」と呼べるようなものがないことは、それを物語っている。たとえば、「マルクス」と「マルクス主義」はちがう。では、どう違うのか。マルクス主義は理論化、体系化された「知識」に過ぎない。それ故に、「マルクス主義者」になることは、誰にも出来る。マルクス主義という理論や体系を「丸暗記」すれば、それでいいからだ。しかし、「マルクス」はそれとは違う 。マルクスは、マルクス主義者ではない。マルクス主義と言われることになるような問題を、自分の頭で考えた人である。マルクス主義者たちは、マルクスのように、自分の頭で考えるわけではない。ただ、マルクスの考えたことを、学習し丸暗記しているに過ぎない。これは、プラトンプラトニズムにも、デカルトデカルト主義にも、ヘーゲルヘーゲル主義にも言える。しかし、哲学は、しばしば 、プラトニズムやデカルト主義、ヘーゲル主義が、哲学の歴史だと説明する。「哲学」とは「哲学する(考える)」ことであるはずだが 、日本の大学の「哲学」とは、学説や思想体系のを「暗記する」ことのようである。私は 、大学と大学院で、「哲学」を専攻したが、「哲学史」や「哲学概論」の類が嫌いだった。私は、「考える」ことが好きだったので、哲学科で学んでいたにも関わらず、ベルグソン以外は、もっぱら文芸批評ばかり読んでいた。小林秀雄江藤淳吉本隆明等が書く文芸批評作品には、「考える」という仕事があった。言い換えれば、日本の文芸批評には、本来的な意味での「哲学」があった。「哲学する」という意味での「哲学」である。これは、浅田彰が対談している相手である柄谷行人が 、廣松渉との対談で、指摘していることだ。柄谷行人は、浅田彰が所詮は「暗記型秀才」であり、思考力や創造力の欠如したクイズマニア的な雑学系知識人でしかないことを熟知しているはずだ。柄谷行人が、浅田彰の才能を高く買ってきたとすれば、それは、「小間使い」(パシリ)として便利だったからだろう。(続く)


■今週のYoutube『 N国党についてー立花孝志、平塚正幸、はぐれ哲学者』
https://youtu.be/fMm2i3If4I4

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