文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

小林秀雄とマルクス(7) 「小林秀雄とマルクス」という問題で、重要な位置をしめている問題は、理論や思想(イデオロギー)の問題ではない。実践や実行の問題である。小林秀雄が『様々なる意匠』以来、一貫して繰り返してきた問題は、文学的実践、つまり、文学的な創作=創造という問題である。小林秀雄が批判する「マルクス主義者たち」にとって、創作=創造は問題になりえていない。「マルクス主義者たち」にとっては、マルクスやマルクス主義は「理論」の問題であって、実践の問題ではない

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小林秀雄マルクス(7)

小林秀雄マルクス」という問題で、重要な位置をしめている問題は、理論や思想(イデオロギー)の問題ではない。実践や実行の問題である。小林秀雄が『様々なる意匠』以来、一貫して繰り返してきた問題は、文学的実践、つまり、文学的な創作=創造という問題である。小林秀雄が批判する「マルクス主義者たち」にとって、創作=創造は問題になりえていない。「マルクス主義者たち」にとっては、マルクスマルクス主義は「理論」や「思想」の問題であって、「実践」の問題ではない。小林秀雄は、マルクス、あるいはマルクス主義という「大問題」を論じながら、つねに、同時に、「小さな問題」を論じている。小さな問題とは、日常的な、実践的な、いわゆる「瑣末な問題」である。しかし 、小林秀雄にとっては、「大問題」も、小さな、日常的な、瑣末な問題も、決して別物ではない。昭和7年に書いた 、小林秀雄の初期作品『 Xへの手紙』に次のような文章がある。

《 女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてこの世を理解して行こうとしていた俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何もかも尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方で実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然しなくなって来るほどお互いの顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついてくれないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、ーー要するに俺は説明の煩に堪えない。》(『Xへの手紙 』)

これは、中原中也の恋人(長谷川泰子)を横取りして、同棲し、やがて別れを決意し、家出同然に逃げ出したという、若き日の小林秀雄が体験した、苦しい恋愛体験を回想したものだが、ここで、小林秀雄は、「マルクス体験」と同次元の出来事として、「恋愛体験」を語っている。私は、小林秀雄の「マルクス体験」の秘密は、ここにあると思う。小林秀雄は、「マルクス体験」と「恋愛体験」を区別していない。小林秀雄にとって、「マルクス体験」は、大問題だったかもしれないが、「恋愛体験」も、同じ程度か 、あるいはそれ以上に大問題だったのだ、ということである 。「マルクス主義たち」には、これが分からない。いわゆる「マルクス主義者たち」は、「恋愛体験」のような瑣末な問題を軽蔑し、「マルクス体験」のような大問題を神秘化し、偶像化する。そこに、「物」「人間」を直視しようとしない「マルクス主義者たち」の概念的思考と自己欺瞞が始まる。たかが恋愛体験にすぎないと言うなかれ。マルクス体験も 、たかがマルクス体験にすぎない。小林秀雄は、恋愛体験の分析に全勢力、全能力をもってぶつかっていったように、マルクス体験にも、全勢力と全能力をもってぶつかっていったのである。マルクスが「商品」という物の分析に、全勢力と全能力をもってぶつかっていったように。マルクスは、こう書いている。

《商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる
。(『資本論 』) 》

マルクスは、言うならば、「商品」を分析するのに、「恋愛体験」や「女」を分析する小林秀雄のように、用心深く、柔軟な思考力で、立ち向かっているということが出来るかもしれない。では、マルクスではなく、マルクス主義者(経済学者)たちはどうだっただろうか。柄谷行人は、このことについて、こう言っている。

《それまでの経済学者は、眼にうつる かぎりのカテゴリーを整理してすでに経済学の体系を組立ていた。マルクスはその諸カテゴリーを継承しそれを批判的に再構成したと言えるが、しかしもっとも単純で何の変哲もないただの商品に、「形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さ」をみいだす眼は、もはや経済学者のものではない。どんな経済学者も、いやむしろ経済学者の方こそ、こんなものを自明のものとして通りぬけるだろう 。》(『マルクスその可能性の中心 』)

経済学者は、経済学者であるが故に、「商品」などという自明で平凡な物に、今さら、関心を持つことはなかった。むしろ、そんな物を無視することが経済学者の常識だった。しかし、マルクスは違っていた。マルクスは、「商品」という自明で平凡な物に、「形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さ」をみいだした。

《だが、マルクスはまず商品からはじめる。「自明で平凡な物」か らはじめるのである。》(『マルクスその可能性の中心 』)


マルクスは、「恋愛体験」にこだわる小林秀雄のように、自明で平凡な「商品」という物にこだわる。マルクスは、経済学者の眼ではなく、小説家の眼を、もっと厳密に言うと、自分の恋愛体験に固執し、それを、微に入り細を穿つように、執拗に描く「私小説家の眼」を持っていた。小林秀雄は、恋愛体験について 、こんなことも言っている。

《 こういうところに俺は何かしらのっぴきならない運動を認める。女の仮面や嘘は女の独創であり、言わば女の勇気だとしても、逆に男の智慧にとっては、女の勇気は堪えられない程の虚飾に充ちている。こういう事情に就いて男も女も明瞭な意識を決して持ってはいない、持ちえない。それでいて何故に二人の邂逅する場所にはいつものっぴきならない確定した運動があるのか。俺にはこの言わば人と人との感受性の出会う場所が最も奇妙な場所に見える。》(『 Xへの手紙』)

小林秀雄は、「マルクス体験」が「恋愛体験」以上に深い意味のあるものだとは考えなかった。それ故に、小林秀雄は、次のように言うことが出来たのである。
《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そしてこの変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。 》(『様々なる意匠』)

ここには、強烈な「マルクス主義批判」がある。あるいは「マルクス主義者批判」がある。小林秀雄の「文芸批評」はここから産まれて来たと言っても過言ではない。小林秀雄の「文芸批評」は、マルクスマルクス主義者たちをり分けることであった。むろん、こう言えたのは、小林秀雄が、マルクスの商品論、つまり、『資本論 』における商品の分析を、正確に理解出来ていたからである。マルクスの商品論を、抽象的な、概念的な知識や理論としてのみ理解していた「経済学者たち(マルクス主義者たち)」には、これが理解出来ていなかった。言い換えれば、ここに 、「マルクス」と「マルクス主義者たち」との大きな差異がある。自らの力で、商品という物にぶつかり、素手で、商品という物と悪戦苦闘して商品論を展開した人間(マルクス)と、それを 、単に、知識や理論として、学習し、丸暗記した人間たち(マルクス主義者たち)との差異がある。では 、この差異は、何処から発生するだろうか。私の考えでは 、「恋愛体験」のような単純素朴な個人的体験を語ることを軽視し、侮り、隠蔽し、一方で、「マルクス体験」のような思想体験を語ることを重視し、過大評価するような人達が陥る陥穽があるが、その陥穽が、いわゆる「マルクス主義者たち」の陥りやすい陥穽である。
ところで、私が、今回 、書きたかったのは、柄谷行人浅田彰の対談集『全対話 』(講談社文芸文庫)についてだった。私は、いわゆる「マルクス」と「マルクス主義者たち」の差異について、柄谷行人マルクス論から、多くを学んだが、浅田彰との対談集『 全対話』を読んで、失望したからである。柄谷行人は、予想に反して、浅田彰を相手に、「マルクス主義者の語り」を語っているからだ。つまり、浅田彰は論外としても、柄谷行人も、「マルクス主義者たち」の一人にすぎないことを発見したからだ。何故、こうなるのか。柄谷行人も、頭では分かっているが、「恋愛体験」レベルでは分かっていないからではないか。つまり、柄谷行人マルクス論は、浅田彰マルクス論と同じではないか、と思った。浅田彰マルクス論とは何か。言うまでもなく、浅田彰は、マルクスを本気で読んだことはない。マルクスマルクス主義に関する断片的知識を聞きかじったり、それを学習して、丸暗記しているにすぎない。浅田彰の語りは、マルクス主義者たちの語りにもたっしていない。おそらく、柄谷行人は、「マルクス主義者たち」の一人にもなりえていない浅田彰を、心の底では、激しく軽蔑し、徹底的に批判しているはずである。しかし、柄谷行人は、それを、浅田彰を目の前にして、言うことが出来ない。逆に浅田彰の軽佻浮薄な、教養主義的なマルクス輪に同意する。そして、浅田彰とともに、吉本隆明批判や廣松渉批判を繰り返す。要するに、私は、柄谷行人の「マルクス体験」も、かなり、底の浅いものでしかなかったのではないか、と疑う。つまり、柄谷行人マルクス体験は、小林秀雄の語る「恋愛体験」の深さに達していないのではないか。そこで、私は、「小林秀雄マルクス」へ戻らざるをえない。

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