文芸評論家=山崎行太郎のブログ『毒蛇山荘日記』

文芸評論家。哲学者。慶應義塾大学大学院(哲学)修了。東工大、埼玉大学教員を経て現職。著書=『小林秀雄とベルグソン』『小説三島由紀夫事件』『保守論壇亡国論』『ネット右翼亡国論 』『曽野綾子大批判 』『エセ保守が日本を滅ぼす 』『最高裁の罠 』など。『マルクスとエンゲルス』を「月刊日本」に連載中。近刊予定に『小説・南洲伝』『 小林秀雄とマルクス』『毒蛇山荘日記(1 ) 』など。

小林秀雄の「プラトン論」を読む。 小林秀雄のマルクス論の本質は、マルクスとマルクス主義を明確に分けて論じるところにある。それは、マルクス論だけではない。プラトンでもデカルトでも同様である。まずプラトン論を見てみよう。プラトンと言うと、多くの人は、たとえば、「プラトニズム」とか「イデア論」、あるいは「洞窟の比喩」という言葉を連想するに違いない。要するに、プラトンを、プラトン主義という哲学理論や哲学思想の次元において理解・解釈して、それを前提にして論じる違いない。私が、大学の哲学科で学んだものや、書籍や論文

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小林秀雄の「プラトン論」を読む。

小林秀雄マルクス論の本質は、マルクスマルクス主義を明確に分けて論じるところにある。それは、マルクス論だけではない。プラトン論でもデカルト論でも同様である。まずプラトン論を見てみよう。プラトンと言うと、多くの人は、たとえば、「プラトニズム」とか「イデア論」、あるいは「洞窟の比喩」という言葉を連想するに違いない。要するに、プラトンを、プラトン主義という哲学理論や哲学思想の次元において理解・解釈して、それを前提にして論じるということである。私が、大学の哲学科で学んだものや、書籍や論文として出版されたプラトン研究書において学んだものも、ほとんどが、そういう種類のものだった。私は、哲学科に進む前に小林秀雄を読んでいたから、そういうプラトン研究に、いつも不満を感じていた。それじゃ、単なる歴史史料の暗記や解釈・解説に過ぎないではないか、と。小林秀雄プラトン論は、まったく違っていた。では、どう違っていたのか。小林秀雄は、プラトンをどう論じ、どう解釈し、どう理解していたのか。要するに、小林秀雄プラトン論は、大学やその周辺の学者や研究者たちのプラトン論と、どう違っていたのか。小林秀雄に、「プラトンの「国家」」というエッセィ(『 考えるヒント』)がある。そこに、次のような文章がある 。

《 自己を失った人間ほど強い者はない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。》(小林秀雄)

プラトンの師・ソクラテスは「書くこと」をしなかった哲学者であるのに対して、プラトンは「書いた人」である。プラトンの代表的著作である『ソクラテスの弁明 』が示すように、プラトンは、師・ソクラテスとの対話(対話篇)を文章化することによって、ソクラテスの哲学や思想、そしてプラトン自身の哲学や思想を明らかにしようとした。
「自己を失った人間ほど強い者はない」と言ったのはソクラテスである。それを書き留めたのがプラトンである。さて、「自己を失った人間」とは、「考える」ということを放棄した人間である。つまり、「考える」ということを放棄した人間は、考えないが故に、「強い」のだということである。さらに、小林秀雄は、次のように言う。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても闘うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の印である。》

「考えさせられる」とは、「考える」ことではない。「考える」ことを放棄した思考停止状態である。プラトンは、ソクラテスを、「考えさせられる」、つまり思考停止と 徹底的に闘う人間としての描いている。おそらく、そういうソクラテス像の中には、プラトンの思想も 盛り込められているだろう。言い換えれば、小林秀雄は、プラトンの哲学を、「徹底的に考えた哲学者」として描いている。「プラトニズム」も「イデア論」も、「洞窟の比喩」もその結果に過ぎない。

(続く)






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